2025年04月:ケネディ文書が示す日米スパイ協力の歴史:第二次世界大戦後から密かに行われていた日米のスパイ協力の実態

スパイニュース解説記事

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ケネディ文書が明らかにした米国情報機関の東京支局の存在

 2025年3月18日、トランプ米国政権下で、1963年のケネディ元大統領暗殺に関する約8万ページの機密文書が公開されました。

 翌4月になって、文書の中で、米国情報機関の中央情報局(CIA)の活動に言及した部分が報じられ、CIAが東京都内に支局を開設していたことが明らかになりました。外国の情報機関が日本国内に活動拠点を有していることは長年、「公然の秘密」でしたが、この文書が公開されて名実とともに事実と判明しました。

 CIA東京支局の存在については、日米両政府ともその存在を否定していましたが、これは、双方の間に秘密にする取り決めがあったことを示しています。

 こうした取り決めに至るほど、日米両国の「スパイ活動」は連携されていますが、これは、いつ頃からどのように始まったのでしょうか。

第一次世界大戦後から「スパイ活動」を本格化させていた日本

 日本では、第一次世界大戦を終えてから、軍事活動の準備段階として「スパイ活動」による情報収集と諜報工作が必要と認識されていました。

 ただ、当時は、日本をはじめ世界各国で、「スパイ活動」に関するスキルとノウハウが蓄積されていません。世界最古の近代情報機関とされる英国の秘密情報部(MI6)ですら、発祥は、第一次世界大戦の勃発前の1909年にまで遡ります。

 こうした中、日本の陸海軍は、「スパイ活動」の幕開けとして、1920年代には、外国軍人を対象とした協力者の獲得と、暗号通信情報の傍受及び解読の2点に取り組みました。日本と内通した外国軍人としては、元英国空軍パイロットのフレデリック・ラトランドが知られます。退役後に米国居住であったラトランドの「スパイ活動」によって、日本は、米軍の軍艦建造などに関する動向を把握していました。

 第二次世界大戦の目前である1938年には、「防諜研究所」という形で「スパイ活動」が組織化され、これが日本初のスパイ養成機関となる「陸軍中野学校」へつながります。第一次世界大戦後から数十年の時を経て、日本の「スパイ活動」は、国家横断的な近代情報機関としての体裁を整えたわけです。

第二次世界大戦中になって実効性のある「スパイ活動」に着手した米国

 米国では、第一次世界大戦中の1917年に「スパイ防止法」が制定され、「スパイ活動」に対する取り組みが本格化しました。しかし、この法律は、大戦への反戦運動に対する言論弾圧に運用された実態があり、政治色の強いプロパガンダ宣伝工作が優先されました。スパイを世界各国の送り込んだり、外国スパイを摘発するという純然たる「スパイ活動」となりませんでした。

 陸海軍や国務省がそれぞれ独自に情報収集と諜報工作を展開していましたが、これらを調整する中央情報機関や調整組織が存在しておらず、「スパイ活動」のスキルとノウハウを組織的に蓄積できていません。世界各国へスパイを送り込むよりも、米国内の情報が他国から奪われないよう内向きな「スパイ活動」に終始しました。

 1939年に第二次世界大戦が始まっても、対外情報を収集する中央情報機関が設立されず、日本とは対照的でした。1941年に日本との開戦直前になって、当時のルーズベルト大統領の発案で、陸海軍や国務省の「スパイ活動」を調整する「情報調整局」(COI)が設立されました。中央集権的な情報機関としては初めてでしたが、これも主に、戦時中のプロパガンダ宣伝に用いられた一面があります。国家横断的な中央情報機関が不在のまま、終戦を迎えたのです。

第二次世界大戦後から始まった日米のスパイ協力体制

 米国は、第二次世界大戦の戦勝国となりましたが、大戦直後にソ連との関係が急速に悪化する中で、第一次世界大戦から数十年続いた中央情報機関の不在を見直すことになります。米国は歴史的に、情報収集と諜報工作無くして戦争に勝利してきましたが、ソ連は、米国史上で最大の敵対国であり、中央情報機関の必要性が高まったのです。

 1947年になって、ソ連の脅威に対抗するために、COIからいくつかの変遷を経て、中央情報局(CIA)という中央情報機関を設置しました。CIAこそ、東西冷戦におけるソ連とのスパイ戦争の中心的な存在であり、同時に、日本との間で事実上一体化した「スパイ活動」を展開した立役者です。

 米国主導の連合国軍総司令部(GHQ)は、戦後日本に対して警察予備隊の創設を命じましたが、これが後に自衛隊となり、日米の軍事分野で事実上一体化しました。日米の諜報分野においても同様の事象が存在していたのです。

東西冷戦の開始に伴い日米のスパイ連携が形成

 東西冷戦下では、日本の「情報機関」が米国の中央情報局(CIA)の事実上の手足となります。陸軍中野学校など戦前の情報機関は解体されたため、戦後におけるCIAの交渉相手となる「情報機関」が日本側に創設されます。それが1952年に創設された内閣情報調査室です。

 内閣情報調査室は当初、CIAに倣って、日本政府内を横断する中央情報機関となる構想がありました。CIAにとっては、日本の「スパイ活動」を自分たちと一体化する上で、都合が良かったためです。

 しかし、この構想は、特高警察など戦前の情報機関の再来を想起させるとして、政府内外から批判を浴びて、撤回されます。内閣情報調査室は、中央情報機関から遠い小規模な組織にとどまり、法務省には、過激な左翼団体を規制する公安調査庁が設置され、警察には、特高警察の流れを組む公安警察が誕生します。

 こうして「情報機関」が乱立してしまい、CIAは、それぞれの日本側「情報機関」と個別に連絡及び調整を取るようになりました。

諜報分野における日米連携の深化と対米依存の始まり

 「情報機関」の乱立に伴い、戦後日本の情報収集機能は、世界水準にほど遠いレベルになりますが、結果的にCIAにとっては好都合でした。

 戦後日本の「情報機関」は、対外情報の収集機能を事実上持たないため、代わりにCIAが対外情報を日本側に提供することになります。つまり、米国にとっては、好都合な情報が日本に流されるばかりで、日本にとっては必ずしも有益と言える情報が入手できません。それでも、対外情報の収集機能を持たないため、CIAに対して、日本が必要とする情報提供を依頼するしかなくなります。

 しかし、情報機関の世界は原則、「ギブアンドテイク」であり、何らかの情報提供を依頼すれば、見返りとなる情報を求められます。日本の「情報機関」の対外情報に関する能力は限定的にならざるを得ず、CIAからの依頼された対外情報には応じられません。

 こうして日本の「情報機関」は常に、CIAに対して不利な立場に置かれました。依頼に応じられない以上、あらゆる譲歩を求められるためです。

中央情報局(CIA)東京支局の設置

 ケネディ文書では、CIAが東京支局を設置していたことが明かされ、これは終戦後のGHQによる戦後統治下が発端でした。その最中に、米国内でCIAが創設され、1952年に戦後統治が終了すると、これに合わせて東京支局が設置されました。ここから、CIAが日本の「情報機関」に対して、連絡及び調整を取るようになります。

 日本の「情報機関」それぞれに対し、CIA東京支局の存在を通達するとともに、その存在を秘密にしつつ、情報機関レベルの情報交換を行うよう約束されたのです。日本の「情報機関」は、一方的な約束を迫られ、応じるほかありませんでした。

 こうして日米両政府が公式に認めないCIA東京支局に対し、日本の情報収集機能が依存する歴史が始まったのです。

日本の「情報機関」に対する一方的な「情報交換」による対米依存

 米軍と自衛隊という軍事面とともに、CIAと日本の「情報機関」という諜報面においても、戦後一貫して対米依存が続いています。戦後80年の間に、外務省に国際情報統括官組織が設置されたり、防衛省に情報本部が設置されるなど、日本の「情報機関」に組織改変がありましたが、原則は変わっていません。

 CIA東京支局は現在、日本側の①内閣情報調査室、②公安警察、③公安調査庁、④外務省国際情報統括官組織、そして⑤防衛省情報本部それぞれと回線を開いており、いついかなる時も「情報交換」という形で一方的に指示しています。

 例えば、米国内でテロリスト容疑のある者が来日するケースがあるとしましょう。米国は、日本国内においても、その者がどこで何をしているか情報を必要とします。その情報を収集するために、日本の「情報機関」に通報して、その者を監視尾行するよう「協力」を求めることがあります。名目上は、日本の国益に基づいているようで、実際には、米国の関心に基づいた情報が一方的に「交換」されることになります。

トランプ政権下で米国閣僚として初めて来日した国家情報長官

 こうした対米依存を印象付けるのは、米国の国家情報長官(DNI)の来日です。国家情報長官とは、米国の各情報機関によるコミュニティを調整する責任者として、2004年に創設された閣僚級ポストです。過去には、複数のCIA出身者が就任しています。

 2025年3月には、ギャバード国家情報長官が来日しており、これは、第二次トランプ政権下では、初めての閣僚級高官の来日です。報道上では、「情報当局の幹部」と会談したとありますが、国家情報長官が来日した際は、日本の「情報機関」それぞれを訪問することが通例となっています。

 今回の来日でも、内閣情報調査室から内閣情報官、公安警察からは警察庁警備局長、公安調査庁から公安調査庁長官というように、最高幹部がギャバード長官と会談しました。日米の情報機関レベルにおけるスパイ協力は、依然として健在であり、CIA東京支局の存在が明らかになっても影響がありません。

対米依存の最前線に立つ「リエゾン・スパイ」

 日本の「情報機関」には、対米依存の最前線に立つスパイがいます。それは、交換業務を担当する渉外担当官であり、「リエゾン」と呼ばれるスパイです。

 スパイと言えば、一般的に、①現場で人と会って人的情報(ヒューミント)を収集したり、②本部で公開情報を収集して分析するという二つに大別されます。ただ、スパイの中には、外国の情報機関と接触して、情報を交換するというスパイもおり、これが「リエゾン・スパイ」です。

 各国大使館には、非公式ながら外国の情報機関から派遣されたスパイ要員が外交官身分で勤務しています。これが「リエゾン・スパイ」の「スパイ活動」上のターゲットとなります。ターゲットに接触し、情報機関レベルで協力関係を構築するよう依頼します。一般的なスパイは、個人レベルで協力関係を構築しますが、「リエゾン・スパイ」は、組織レベルという点で特殊なスパイです。

 当然ながら、日本の「情報機関」は戦後一貫して、CIA東京支局と協力関係を構築し、情報交換を行なってきました。その矢面に立って、CIAと交渉を担当するスパイがいたわけです。

一方的な「情報交換」の中で国益にかなう情報を引き出す

 「リエゾン・スパイ」は、情報交換するに当たって、所属組織が集めた情報を、相手組織が集めた情報とそれぞれ交換することが仕事です。

 情報機関レベルの交流では、「ギブアンドテイク」が国際的な慣習であり、対等な価値のある情報が交換されるのが通例です。しかし、「リエゾン・スパイ」は、相手に渡した情報以上に価値のある情報を相手から入手することが求められます。逆に、相手に渡した情報以下の価値しかない情報しか得られないとすれば、交換業務の失敗です。

情報をいかに高く売りつけるかもスパイの素養の一つ

 日本の「情報機関」は、対外情報を対米依存しており、CIA東京支局に提供できるような価値ある情報に限界があります。故に、CIA側からは、大した価値のない情報しか得られません。そこを創意工夫して、日本国内で収集できる情報の中から、米国にとって価値のあるものを探し出し、これをあたかも貴重な秘密情報であるとして、CIA側から関心を引き出すほかありません。

 例えば、日本各地には、米軍基地が所在しており、その存在と活動に関する安全確保は、米国にとって関心事項の一つです。特に、沖縄には、米国本土以外で数少ない海兵隊が配備されています。

 在日米軍基地に関する国内情報は、CIA東京支局といえども独自で入手できず、日本の「情報機関」に頼るほかありません。「リエゾン・スパイ」は、こうした情報需要の隙間を突いて、米国に情報を少しでも高く売りつけることで、価値のある対外情報を米国から入手してきたのです。

 戦後における日米のスパイ協力の陰には、「リエゾン・スパイ」という特殊なスパイたちの数々の奮闘があったわけです。

以 上

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