在日クルド人コミュニティーはいかに生まれて拡大したのか?(SPY-NE012)
はじめに
著者は、2000年代に埼玉県川口市や蕨市を中心とする在日クルド人コミュニティーに潜入調査して、多くの在日クルド人と交流しました。ただ、元諜報員(元スパイ)に課された情報保全規程に基づき、その詳細や特定につながる非公開の情報を明かすことは一切できません。
あくまでも、報道に基づく公開情報を根拠として、元スパイの視点から、昨今話題の在日クルド人問題の経緯と実情を論じます。これは、在日クルド人への差別と偏見を払拭し、彼らの生活と活動の適切な理解を促進することが目的です。
在日クルド人の素行をめぐる報道がきっかけ
産経新聞と埼玉新聞の報道によれば、2023年7月4日、埼玉県川口市の病院で、トルコ国籍の在日クルド人約100人が乱闘を起こし、死傷者が発生しました。
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100人という大勢の外国人が集まり、乱闘を起こすというのは、治安維持の観点から日本国内で注目すべき事案であり、メディアによる報道に至ったとみられます。同時に、埼玉県の川口市と蕨市を中心として、在日クルド人が多数居住していることも日本全国へと広まるきっかけともなりました。特に、昨今、普及が目覚ましいSNSによって、様々な論調を引き起こし、在日クルド人への関心が高まりました。
同時に、一部の論調では、在日クルド人を危険視したり、差別や偏見に近いものも散見されます。この在日クルド人とはそもそも、どのような人たちでしょうか。彼らは、いつどこから来て、日本に住み始めたのでしょうか。

1990年代:トルコから世界や日本に向けたクルド人難民の発生
トルコからクルド人が初めて来日したのがいつであり、なぜその多くが埼玉県に定住し、いつからコミュニティーと言ってよいほどの人数にまで拡大したのか、それは諸説あるために明らかではありません。
ただ、1980年代からトルコ南東部のクルド人居住地域でクルド人に対するトルコ政府の迫害が本格化し、クルド人がトルコ国外へ難民として逃れようになったことが、一つの要因と考えられます。1990年代になると、クルド人難民の一部が日本にまで波及するようになりました。

トルコ国内で、クルド人への迫害が顕著となった背景には、クルド人国家の建設を目指すクルディスタン労働者党(PKK)が、トルコ政府に対して武装闘争を開始したことがあります。
PKKは、クルド人が居住するトルコ南東部をトルコから分離させ、クルド人国家として独立させることを目的として、1978年に設立されました。トルコ政府は、分離独立など認めるはずがなく、PKKの目的は達成の見通しが立ちません。PKK内部の過激派グループがトルコ政府を標的とした武装活動を始め、PKKは、1984年に武装闘争路線を採用すると明らかにしました。トルコ南東部では、政府とPKKの戦闘が始まり、クルド人住民が巻き込まれて犠牲者が相次ぎます。こうしてクルド人から難民が発生し、トルコ国外へ逃れるようになります。

1990年代:クルド人難民の来日が本格化
クルド人難民の主な逃避先は当初、ドイツでした。ドイツは、第二次世界大戦中におけるユダヤ人迫害への反省として、欧州各国の中で難民受け入れに積極的であったためです。
ただ、1990年代のドイツは「欧州の病人」と呼ばれるほど経済状況が停滞しており、インフレと高い失業率に直面し、国民生活は深刻化していました。ドイツへ逃れたクルド人難民は、生活の糧を求めて職を探しますが、難民という身分と不景気もあって金銭的に困窮します。
一方、1990年代初頭に、「バブル景気」と呼ばれるほど経済的に活況を呈している国がありました。トルコは歴史的に、エルトゥールル号遭難事件や日露戦争の勝利などを通じて親日国とされ、これはクルド人の間でも知られていたはずです。
クルド人難民の一部は、ドイツと異なり、好景気の国であれば生活できるという希望を持って、その国へ向かいました。こうして時期不明ながらも、クルド人の来日が本格化したとみられます。

1990年代:自然発生的に埼玉県に定着していったクルド人
来日当初、クルド人はドイツと同様、日本政府に対して自分達を難民として受け入れるよう求めました。しかし、日本政府は入国管理制度で、「難民」という在留資格を設けておらず、事実上は難民の受け入れを認めない立場です。
クルド人たちは、世界各国の制度と異なり、難民を認めない日本政府に対して、難民認定を申請し、時には陳情活動を行うことになります。そうなると、クルド人たちは何度も入国管理局へ向かう必要が生じます。
1990年代の東京入国管理局の庁舎は現在と異なり、千代田区大手町に所在しており、最寄駅は、東京駅又は大手町でした。東京駅へのアクセスが良い路線の一つとしては、京浜東北線が挙げられ、京浜東北線は、賃料が都内に比べて安価な埼玉県を通っています。在日クルド人コミュニティーが、川口市や蕨市など京浜東北線の駅が所在する場所に形成された背景には、東京入管へのアクセスの良さと賃料の安さがあったと考えられます。
クルド人に限らず、在日外国人は永住者を除いて、数年に一度、入国管理局へ出頭して在留期間の更新手続きが必要であり、入国管理局へのアクセスは無視できない事情です。故に、こうしたアクセスを考慮し、東京駅又は大手町へつながる路線沿いで、外国人コミュニティーが形成されている事例が他にもあります。
こうしてクルド人は、難民受け入れ手続きへの対応もあり、自然と埼玉県内に定住していったのでしょう。

2000年代:在日クルド人コミュニティーの拡大と定着
埼玉県では、川口市や蕨市を中心にクルド人が続々と来日して居住します。クルド人に限らず、家族や親戚のツテを頼って外国へ移住すること自体は、世界的に珍しくありません。特に、トルコ国内の迫害から逃れるためとあっては、国外のツテを頼りにするほかなく、クルド人の生活基盤が築かれつつあった埼玉県内に、クルド人が集まってくることは、自然な流れでしょう。
クルド人の生活で主な収入源となったのは、建設現場や解体現場における重労働でした。「バブル景気」と呼ばれた好況時の日本は、不動産の建設ラッシュにあり、建設現場や解体作業では人手不足に悩まされていました。こうした条件に対し、体格に恵まれたクルド人は、肉体労働で活躍できたのです。
例えば、「World Population Review Average Height by Country 2024」によれば、トルコ人の平均身長は世界第52位の176.36センチであり、日本人の平均身長172.06センチを4センチ以上上回っているとされます。クルド人は、世界的に見ても平均身長が高い部類に入ります。クルド人を見れば分かりますが、高い身長と鋭角的な風貌を持ち、筋肉隆々の肉体が目に留まるはずです。
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クルド人は、日本人が敬遠する重労働で賃金を得ることができ、日本の生活を安定化させていきました。日本は、クルド人にとって、この上なく恵まれた好環境であったのです。
なお、解体現場では今でも、トルコ人やクルド人が活躍しており、解体現場や解体会社で彼らの姿を見ることがあります。もはやクルド人は日本人にとって身近な存在なのです。

2000年代:地元住民から可視化される在日クルド人コミュニティー
クルド人の中には、重労働で稼いだ金銭を元に、様々な事業を始める者が出始めます。例えば、日本は自動車産業が盛んであり、中古車が市場に出回っているため、中古車輸出業を手掛けるクルド人がいます。そのほか、トルコ料理は、中国とフランスに並んで世界三大料理とされるため、トルコレストランを開業するクルド人もいます。
クルド人でありながらも、トルコ料理を調理してトルコレストランを営むことには、日本人にとって違和感があるかもしれません。しかし、これは在日外国人によくあることです。例えば、インドレストランは日本中にありますが、そのオーナーやスタッフは、ネパール人が大半です。トルコ料理でいえば、ドネルケバブが日本人の間で定着していますが、調理しているのは主にイラン人だったりします。
在日クルド人は、建設労働のみならず、様々な分野で起業して、オフィスや店舗を用意して英語やトルコ語の看板を出していきます。つまり、在日クルド人という存在が、地元住民の目に徐々に映るようになり、その存在感が知られるようになります。
そして、日本人が正月やお盆などで賑わうことと同じく、在日クルド人は、クルド文化に基づく生活習慣やイベントを日本へ持ち込み、家族や親族を集めて祝うようになります。こうして在日クルド人の存在は一層、地元住民に知れ渡ることになります。

2000年代:日本文化との友好と共生を目指すクルド人
クルド文化の一つに「ネウロズ」(Newroz)というお祭りがあります。これは、クルド語で「新しい」を意味しており、日本で言えば主にお正月に相当します。春の到来を祝う意味もあり、春分の日に当たる3月21日に行われます。
在日クルド人は、2000年代初頭から埼玉県内の公園や公民館を借り切って「ネウロズ」を開催するようになりました。開催に当たっては、在日クルド人が集まって団体を設立し、その団体名義で施設を借り切っていました。
この時期は、こうして在日クルド人団体がいくつか設立され、「ネウロズ」をはじめとして、クルド文化の紹介と日本との友好を目的とした活動が本格化しました。「ネウロズ」は、在日クルド人のみならず、地元住民へも一般開放されており、双方の間で交流が進むことで、在日クルド人コミュニティーは、日本へと徐々に馴染んでいきます。
一方、地元住民にとっても、クルドという名称は耳慣れませんが、トルコであれば少なからず馴染みがあります。例えば、2000年代には、トルコ料理の一つである「ドンドゥルマ」(Dondruma)が日本国内で一斉を風靡しました。いわゆる「伸びるアイス」として知られ、在日クルド人が経営するトルコレストランでは、店先で「伸びるアイス」を実演してみせることもありました。物珍しさも手伝って、トルコレストランを訪れる地元住民が後を絶ちません。
こうして、在日クルド人は図らずしも、地元住民から「トルコ人」と認知されるようになりますが、在日クルド人と地元住民との距離が縮まったことは確かでしょう。ただ、在日クルド人の難民という複雑な一面が十分に理解されたとはいえませんでした。

様々な問題に直面していく在日クルド人コミュニティー
2000年代において、すっかり日本に定着した感のある在日クルド人ですが、同時に、様々な問題を抱えるようになっていきます。
一つは、2001年に発生した米国同時多発テロを受けた国際テロリズムの高まりがあります。世界中で、イスラム過激思想によるテロ発生に懸念が高まり、イスラム教徒に差別と偏見の目が向くことも出てきます。クルド人の大半は、イスラム教徒です。当時、トルコ国内では、PKK分派組織「クルド解放の鷹」(TAK)が観光客を標的としたテロを実行しており、日本国内でも報じられていました。在日クルド人の中から、こうしたテロ活動への共鳴や支援が存在するおそれがあるとして、彼らは治安当局から監視されることになります。
また、在日クルド人はあくまでも自分たちを難民と考えており、日本政府による難民認定を繰り返し求めています。中には、入管施設前で過激な抗議行動に出る者も出始めます。対応に苦慮した入管当局が、職員をトルコ南東部のクルド人地域へ派遣し、現地調査を行なったのもこの時期です。トルコから来日するクルド人も後を絶たず、在日クルド人の難民認定問題が顕在化します。
やがて地元住民との共生に影響を与えるようになり、今日の問題へとつながっています。

以 上



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