情報と知識:情報にしかない信ぴょう性という特質(IN-Literacy003)
情報のみが持つ信ぴょう性という概念
情報には、知識と相容れない性質がいくつかあります。その中の一つは「いくたりかの正しさといくたりかの間違いの混在」です。情報とは、歴史的な検証を経て知識へ昇華しない限り、必ずいくたりかの間違いを有しています。故に、知識と同列に扱うことができる概念ではありません。
つまり、「正しい情報」とはあり得ない概念にほかならず、むしろ「正しくない情報」の方が情報の本質に近いとも言えるわけです。間違えるという、我々が信頼を失って止まないと恐怖する性質を有するのが情報です。間違えることに対して、正面から対峙する必要性を身につけることこそ、情報を取り扱うリテラシー即ち「情報リテラシー」へと結びついていきます。
情報で問われる間違いのコントロール
情報が必ずしも正しくないからと言って、情報を間違えることや、その間違いを軽視や無視することを無制限かつ無原則に勧めているわけではありません。いかに情報といえども、その正しさを検証し、その間違いを極力少なくするための努力が求められます。これは「情報の信ぴょう性を高める」という考え方です。
この信ぴょう性の確保こそ、情報が必ず持つ間違いをコントロールできるようになるために意識すべき概念となります。情報のプロは、「この情報は信ぴょう性が高い」と評価することで、個々の情報が有する間違いを最小化し、間違いを最小化した情報を根拠に決定と行動することで、生じた結果を想定内にとどめようとします。
したがって、情報のプロは常に信ぴょう性の程度、つまり何%まで信じてよいか、よくないかに最大の関心を寄せているわけです。

情報が突きつける間違いという人間の本質
信ぴょう性という概念は、高度な情報化社会を迎えてもなお、広く浸透しているとは考えられません。これは、信ぴょう性という概念を理解する上で障害となる社会的な認識がいくつか存在するためと考えられます。
その障害の一つは、やはり「間違えること」です。間違えることは、社会的な信用を考慮する上で避けて通ることができず、間違えることが多くなればなるほど他者から信用を失うと考えるようになっています。知識の場合は、その正しさが裏打ちされていることもあり、正しい知識を身につけることは、例えば書物に書かれた文字を読めば入手可能です。故に、知識を取り扱うのであれば、正しくあらねばなりません。知識を間違えないようにすることは十分可能です。
しかし、情報の正しさは、書物に記された文字によって裏付けられていません。記録される前の段階で、情報は正しいと検証されることなく、泡沫のように消えていくものです。消える以前の情報についても、正しさが十分に検証されているわけではないため、飽くまでも情報のままです。情報を取り扱うことは、間違いを取り扱うことと同義と言えます。我々は、何らかの情報に接して生きている限り、「何かしらの間違い」に接し続けていることを認めなければなりません。
この事実は、間違いを回避しようとする意識、間違うことで信用を失いたくないという知識レベルの恐怖によって、見て見ぬふりされています。自分がいくたりか間違っているという事実を正面から受け止めることは、信用を失いかねないという恐怖との戦いと言って差し支えありません。
特に、信用が過剰に意識される社会環境、つまり「信用過剰社会」にあっては、情報の持つ間違いに対峙することがますます困難になっています。こうした困難は、やがて「正しい情報」という矛盾を生み出し、情報の有する間違いを直視しないという習慣や固定観念にまで発展してしまいます。そして、必ずしも正しくない情報に対して、ますます知識レベルの正しさが求められてしまい、想定外の結果が生じて混乱をもたらすわけです。

我々は、生まれながらにして、自分ガ他人からどう見られるかという体裁を気にしてきたけど、果たしてこうした体裁って、本当に必要とされているのかな?体裁を取り繕うために、正しいことが必要とされているって、本当かな?体裁や正しさって、どこまで信じたらよいのかな?

間違えたら、他人から笑われて、恥ずかしい思いしますし、できることならば人前では間違えることは避けたいですよね・・・
忘れることもまた人間の本質
他にも信ぴょう性という概念の障害となっているものがあります。それは「忘れること」を忌避するという社会的認識です。
我々は、物心がついて間もなく学校に通い始めますが、そこでは、間違いのない正しい知識を習うとともに、習ったことを忘れないよう記憶することも求められます。そして、試験を受ける中で、正しい知識を間違いのないよう復元するよう訓練され、知識を間違えたり、忘れたりするとネガティブな評価を受けてきました。
故に、間違えることともに、忘れることに対しても、信用を失いかねないという恐怖が自然と植え付けられて成長します。もちろん、学校、特に義務教育で習う内容は、読み書き計算という社会生活を送るようになる上で不可欠であり、正しく忘れないように学習することは重要です。
しかし、これは飽くまでも読み書き計算、つまり最低限度の文字と数字という知識に限った話です。学校は、人間社会におけるあらゆる事象で正しく記憶して忘れないようにするよう教育しているわけではありません。
それにもかかわらず、人間社会には、学校で習った知識で対応できないほど無数の信ぴょう性不明な情報が満ちているのです。学校を出て、こうした情報を取り扱うに当たっては、学校で積み重ねた、正しく記憶して忘れないようにする訓練の成果を以て対応せざるを得ません。それ以外の対応策を教わっていないからです。つまり、膨大な情報を忘れないよう正しく記憶しようと試みてしまうのですが、これは、そもそも学校で習った知識の総量と比較にならず、当然のことですが正確に覚えきれる量ではありません。
このため、情報を覚えきれず、忘れることが頻発することになりますが、ここで、忘れることを忌避する社会的認識が働くことで、忘れた情報を改めて覚えようとしてしまい、そもそも人間は忘れるという本質から遠ざかっていくことになります。

情報とは忘却による結果の賜物
情報は、知識と相容れない性質の一つを持っており、それは、忘却の繰り返しによって重要な情報を得られるというものです。知識は、正しさを担保するための記憶が求められますが、知識とは真逆の性質を有しており、忘却を必要としているのです。
| 知 識 | 情 報 | |
| 正しいか正しくないか | 正しい | 必ずしも正しくない |
| 身に付けるために必要なのは | 繰り返し記憶 | 繰り返し忘却 |
情報はそもそも、日々現れては消えていくという不安定かつ霞のような不透明な性質を有するため、記憶と相性が良い概念ではありません。その時々の環境、状況、条件などに応じて、有用な情報もあれば不用であったり、時には有害な情報も存在します。こうしてつかみどころのない性質に記憶で逐次対応するのは、個々の情報の細かい部分にばかり目が入ってしまい、全体を見失うおそれすらあります。
実は、膨大な情報に対しては、敢えて何もしないことの方が適切であったりします。個々の情報を観察して間違えないようにしたり、記憶したりなど具体的に対応しないことです。そして、外部から流れてくる膨大な情報に対して、ぼんやりと抽象的かつ全体的に見渡しながら、受け身になり続けることが大切です。あたかも「情報のシャワー」を受け身で浴び続けるようにするのです。

こうして受け身になるのは、情報を記憶するためではなく、情報を一つでも多く忘れようとするためです。この「忘れる」とは、知識を忘れることと同じ意味ではありません。数多の情報の中で、その時々の環境、状況、条件などを踏まえて、不要な情報を瞬時に意識の外へ消し去ることで、消し去ろうとも消しきれない情報を抽出するための作業なのです。
例えば、何かを記憶する場合、何度も繰り返し脳内に認識させることで、記憶率は高まります。5回見たものよりも、10回見たものの方が覚えやすく、ましてや100回見たものは早々に忘れられなくなります。これは、記憶力の優劣に関係なく、繰り返した回数の多さが記憶率を高めることに変わりありません。そして、こうして覚える対象が少数かつ単純であればあるほど、記憶率が高まるのも道理です。例えば、Aというアルファベット一文字を100回脳内に認識させれば、記憶力の優劣に拘わらず、記憶することは容易でしょう。
実は、前述した「忘れること」とは、数多の情報の中から、一部を単純化かつ少数化させることで同じ類のものと認識し、同じ類のものを見る回数を最大化させることで、同じ類といえる特定部分を脳内に定着しやすくするためのものです。この特定部分とは、言い換えると、自分の脳内に入ってくる情報を意識的かつ積極的に忘れようとした結果(「忘れる」プロセス)、忘れようとしても忘れられなかった情報ということになります(以下参照)。

こうした「忘れる」プロセスのように、膨大な情報を目の前にしても、抽象的かつ全体的な見方考え方を以て、よく分からないものはとりあえず早々に忘れるというある意味緩慢な姿勢で対応していると、次第に、情報の中に、様々に大小異なるはずなのに、何故か何度も見たことのあるような単純な部分がぼんやりと見えてくるようになります。なぜなら、見た目は様々な形をした千差万別の情報(情報A、B、C、D,E、F)でありながら、その多くには、通底する共通部分(赤色)があるということです。実は、情報とは、表層の見た目で様々な大同小異がありながら、その内実は、似たり寄ったりの大まかな共通部分で構成されているのです(以下参照)。

この共通部分(赤色)を探すためには、情報の余計な表層を記憶するのではなく、表層を積極的に忘れていこうとする意識が必要になってきます。むしろ、脳内に認識したものは一つも残らず忘れても構わないくらい鷹揚に構えることがコツです。なぜなら、忘れたくても何故か忘れられない部分がどうしても脳内に残るようになるからです。この忘れられない部分とは、多くの情報の中で共通する同じような部分であるため、何度も繰り返し脳内で認識させられてしまい、結果として覚えようとしていないのに、気が付いたら覚えてしまったという部分なのです。
こうして多くの情報の中で共通している部分を覚えることができ、覚えることができた部分こそ、有力情報と考えることができます。これは、多くの情報に共通する部分があるという点で信ぴょう性が高い、つまり信じても構わない部分が多いとも考えられます。信じても構わない部分を根拠に決定と行動すれば、導かれる結果もおよそ想定の範囲内に収めることができる、少なくとも到底信じられない結果が生じることはないと想定されます。
つまり、どれほど膨大な情報に接したとしても、忘却によるフィルタリングを繰り返すことで、情報の取捨選択による有力情報の入手が自然と可能になるわけです。
記憶の手法に対する忘却の手法
我々は、幼少から知識を正確に記憶する訓練を受けてきましたが、忘却を行う訓練を受けてきませんでした。それは当然であり、幼少時は、人間社会で生きていくようになるために必要な知識を一つでも多く教わる必要があり、そもそも忘れてよいといえるほどの知識を有していないためです。
しかし、人間社会を生きていくに最低限度十分な知識を得た後に至っては、もはや記憶することによって知識を得る必要性は、幼少時ほど高くないでしょう。むしろ、知識レベルの正しさを有していない信ぴょう性不明な情報を扱う場面の方が多くなるはずです。ましてや、高度な情報化社会を迎えたのならば、知識で対応できる範囲は一層狭くなっていくでしょう。
情報化社会においては、従来の記憶の訓練によって対応することは困難となり、むしろ「忘却の訓練」によって、数多の情報を取捨選択することが求められます。つまり、忘却によって情報の要不要を切り分けて、必要な有力情報を記憶するということです。

記憶することは、人間社会で、生きるための知識を得るために長年にわたって培われてきた技術として、確立されているね。一方、忘れることは、その知識を失うために忌避されて当然とも考えられるけど、本当かな?

ただひたすら記憶するばかりって、文明の発展を重ねた情報社会においてはもう困難になっているかも・・・
スパイになるための「忘却の訓練」
実は、この忘却の訓練は、情報のプロであるスパイの訓練メニューに取り入れられています。当ブログで連載中のスパイ創作漫画『実はロクでもないPSIA新人勤務日誌』において、新人スパイくんは、スパイ初任研修で「行動記録」という研修課題を与えられます。
「行動記録」とは、スパイが情報収集活動や日常生活の中で、自らの周囲に起こり得た事象を記憶し、必要に応じて復元するという訓練です。日常生活と言っても、記憶すべき内容は多岐に渡り、外出して帰宅するまでの間、外出ルートや時刻は当然として、すれ違った通行人の人数、特徴、風貌から、脇を通り抜けた車両の数、色、車種、渡った信号機の色、待ち時間、待っている間に見かけた通行人、立ち寄った店における客やスタッフの人数、風貌など、およそ人間の五感で認識可能な事象は残らず記憶を試みるという非常識なものです。
本来、一般的な社会生活で周囲の状況を記憶する必要などなく、そもそも記憶することなど事実上不可能といえます。故に、スパイを志す新人たちは、無理難題にしか思えない研修課題に苦労します。なぜなら、一つ一つを正確に記憶しようとしてしまうからです。これは、記憶するように指示されているため無理もありません。
実は、「行動記録」は、記憶力を高めて対応できる訓練ではなく、その本質は、忘却力を身に付けることで、記憶すべき情報とすべきではない情報を瞬時に切り分けることが最初の達成すべき目標とされています。この切り分けを身に付けるためは、自分の周囲の状況をぼんやりと抽象的に見続けて、細かい個々の事象を追いかけ回さないという物の見方考え方が求められます。
ぼんやりと見続けることで、自分の周囲の状況において、常に共通している部分を抽出し、これを起点として、周囲の状況に関する情報を紐づけていけば、おおよその事象を何となく覚えることができます。この「おおよそ」や「何となく」という温度感は、記憶頼りに全てを細かく覚えようとしている限り、感じることができません。そして、この温度感なくして、「行動記録」の最終目標に達することは不可能でしょう。
この温度感を得ることで、「行動記録」の最終目標である記憶の復元が可能となります。朧げながらも一本の筋のように自らの周囲の事象を記憶しておくと、後になって、そこから逆算するかのように記憶を手繰り寄せて、五感で体感した周囲の事象を脳内で復元することができるわけです。
ケーススタディ:スパイ小説『ジョーカーゲーム』で描かれた「忘却の訓練」
実は、スパイ小説『ジョーカーゲーム』(2008年刊行・柳広司:著・発行:角川書店)では、スパイ志願者に対する選抜試験が行われる中で、「忘却の訓練」と考えられる場面があります。それは、試験官が志願者に対し、建物に入って試験会場の事務室に入るまでに要した歩数と、通過した階段の段数を答えさせるというものです。さらに、試験会場までの廊下における窓の数やその開閉状態、壁面のひび割れの有無なども質問されます。
当然ながら、こうした変哲もないものの数や状態を記憶して日常生活を送ることなど考えられません。しかし、上述のように、忘却を前提として、認識できる事象を全て情報として捉え続けた場合、通りかかった廊下における窓の数を記憶して復元することも不可能ではなくなります。
本作は、日本で初めてとなる海外諜報機関の陸軍中野学校をモチーフとしていることで知られます。筆者は、陸軍中野学校の参考資料を集めて入念に読み込んでいる形跡が窺われ、その描写には、現実のスパイの本質である「忘却の訓練」まで含まれています。スパイ志願者の尋常ならざる記憶力や洞察力を示すための演出でもありますが、演出の一つと考えても、スパイに求められる地味な資質を取り上げていると考えられ、スパイエンタメの領域を超えて、スパイと情報の本質にまで踏み込んだリアリティーの高さが見受けられます。本作のリアリティーについては、別稿にて詳述します。

以 上


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