今と昔のスパイたちの足跡を辿り、未来のインテリジェンスを見通す──東京インテリジェンス散策(SPY-NE042)
日本のインテリジェンス中枢としての東京
明治維新から150年が経過しようとしています。その間、東京は、日本の政治・経済・文化そして情報の中枢として機能してきました。実はこの都市こそ、戦前から戦後にかけての「インテリジェンス」と称される情報収集と「スパイ活動」の発祥地であり、同時に、その司令塔としての役割を担ってきたのです。
この背景には、明治期に近代国家として歩み始めた日本が、戦争という現実に直面したことが挙げられます。激化する近代戦を生き残るためには、「兵力」だけでなく「情報」が不可欠であるという認識が、時代の変化とともに強くなっていきました。
その潮流を切り開いたのが、明治から大正期にかけて活躍した陸軍軍人の明石元二郎(あかし・もとじろう)です。明石は陸軍大佐であった時代に海外で数々の諜報活動を展開。特に、日露戦争では、欧州を拠点にした諜報工作を通じて、勝利に大きく貢献しました。その功績から、「日の丸スパイの父」と称されてよいでしょう。

その後、明石大佐による諜報工作の実績は、日本における近代的な情報機関のモデルとなっていきます。
彼の活動を手本に、東京では、スパイ養成機関や諜報機関の施設が誕生し、首都・東京は次第にインテリジェンス機能の司令塔としての地位を確立していきました。
しかし、時代の荒波──第二次世界大戦の敗戦と戦後統治の中で、これらの多くの施設は姿を消していきます。それでもなお、現在の東京には、その痕跡がわずかに残されているのです。
この歴史と伝統そして残された痕跡こそが、東京という都市が“インテリジェンス都市”として異彩を放ち続ける理由にほかなりません。こうした「インテリジェンス・シンボル」を辿ることで、戦前から現在までの連続性を再確認し、さらには、現在から未来へと続くもう一つの連続性を見通すことができるのです。

戦前の情報機関の痕跡を巡る:インテリジェンス都市の原点
まずは、戦前の東京における“インテリジェンス・シンボル”の所在地を見ていきましょう。この時代の情報機関は主に、桜田門、九段下、中野という3つのエリアに集約されていました。
最初に、桜田門は、外国の「スパイ活動」を摘発する防諜組織として、特別高等警察(特高警察)が誕生した場所として知られています。特高警察は、国内の思想的な監視活動も含め、戦前日本の情報統制の中枢として機能しました。
次に挙げられるのが、九段下です。ここには、日本陸軍の対外諜報活動が発祥しました。のちに「陸軍中野学校」として正式に設立されるスパイ養成機関の前身が、この地で発足したのです。陸軍中野学校は後に中野へ移転し、名称も改められて制度化されると、中野はスパイ養成教育の一大拠点となっていきます。
また、同じく九段下には、特高警察とともに防諜活動を担っていた憲兵隊司令部も存在しました。元々は、皇居沿いの丸の内に所在していましたが、時期不明ながらも九段下に移転し、敗戦に伴って解体されるまで、この地で過ごしました。

桜田門:戦前は特別高等警察の発祥地
桜田門には、明治維新以降、警視庁本部庁舎が代々所在しています。この庁舎には、1911年になって、後の特別高等警察(特高警察)の始まりとなる「特別高等課」が設置されました。これが、特高警察の最大の実働部隊である「警視庁特別高等部」へ発展し、次第に「特高警察」と称されるようになります。
特高警察の本部機能そのものは、霞ヶ関の内務省内に置かれており、本部と現場部隊は分離された体制となっていました。特高警察は、桜田門に配置された実働部隊を拠点として次第に全国へ展開され、日本全体における防諜活動の中核を担っていきます。
特高警察の活動の中でも、特筆すべき功績として知られるのが、「ゾルゲ事件」です。これは、当時のソ連のスパイであるリヒャルト・ゾルゲらの諜報活動を摘発したものですが、戦前日本における最大級のスパイ事件とされており、特高警察の実力を国内外に示す結果となりました。

桜田門:戦後は公安警察が特高警察を継承
特高警察は、第二次世界大戦の敗戦とともに解体されました。しかし、その組織構造や機能の一部は、「公安警察」という形で現在まで継承されています。
特高警察の本部機能は、戦後の内務省解体を経て、新たに設置された警察庁へ一部引き継がれました。現在の警察庁警備局に当たります。この本部機能は、現在も霞ヶ関に置かれ、国家の治安・防諜に関する中枢機関として機能しています。
そして、特高警察の最大の実働部隊であった「警視庁特別高等部」の系譜は戦後、警視庁公安部として再編されました。そして、その所在地は現在も変わらず、桜田門の警視庁庁舎内にあります。

たしかに、現在の桜田門には、特高警察がかつて存在した痕跡を示す建造物や記念碑などは残されていません。
特高警察が1945年に解体されるまで使用されていた旧警視庁本部庁舎は、昭和初期の1931年に竣工しましたが、1977年に解体され、現存していません。現在の庁舎は1980年に完成したものであり、外観にも内装にも、当時の面影はほとんど残っていないのが現状です。
ただ、組織的な連続性は、確実に引き継がれていると考えられています。公安警察は戦後から一貫して、戦前の特高警察を彷彿とさせるように、外国の「スパイ活動」の摘発に取り組んでいます。特高警察のノウハウ──特に、外国スパイの探索と摘発に関するスキルとノウハウは、戦後に新設された公安警察へ“見えない形”で継承されているわけです。

九段下:戦前は憲兵司令部の防諜活動の本拠地
戦前の日本陸軍には、「憲兵隊」と呼ばれる内部組織が存在していました。これは英語で言うところの「ミリタリー・ポリス」(MP)に相当し、軍内部の秩序維持や規律違反の摘発を主な任務としていました。
本来、憲兵隊の権限はあくまで軍隊内部に限定されていたはずですが、戦時体制の強化と軍国主義の進行にともない、その任務範囲は次第に拡大。ついには、民間の治安維持や防諜活動にまで介入するようになります。とくに、外国スパイの摘発にも積極的に取り組んでおり、特高警察と並ぶ防諜機関でした。
この憲兵隊を全国的に統括したのは、東京に置かれた憲兵司令部であり、憲兵司令部は、1889年に大手町の皇居近くに創設されました。その後、時期は明確ではありませんが、昭和初期(1920年代〜30年代)に現在の九段下(当時は九段)へと移転。第二次世界大戦中は、九段下に建てられた4階建ての憲兵司令部庁舎を拠点とし、ここから全国の憲兵隊を指揮していました。
こうして九段下は、桜田門と並ぶ“防諜活動の二大拠点”として、戦前のインテリジェンス機能を担う重要な地域となっていたのです。


九段下:戦後は公安調査庁の発祥地であり活動拠点
戦前、日本陸軍の防諜機関として機能していた憲兵司令部は、第二次世界大戦の敗戦後、米国主導の占領政策によって解体されました。その後、九段下の憲兵司令部庁舎の跡地利用はしばらく決まらないまま、空白の時期が続きます。
転機となったのは、昭和27年(1952年)。この年、破壊活動防止法の施行とともに、法務省の外局として公安調査庁が新設されると、その本庁が旧・憲兵司令部庁舎に入居しました。こうして、戦前は、桜田門と並ぶ防諜の中心であった九段下は戦後、共産主義運動の規制調査を目的とする公安調査庁の本拠地として、新たな役割を担うことになります。
また、公安調査庁の最大の実働部隊である「関東公安調査局」も同じ庁舎に拠点を置き、ここはインテリジェンス活動の最前線となっていきました。
しかし、1960年代から70年代にかけて「安保闘争」など過激派運動が激化し、公安調査庁はその対策として繰り返し増員されます。その結果、憲兵司令部庁舎は徐々に手狭になりはじめます。


昭和52年(1977年)には、旧・憲兵司令部庁舎に隣接する土地に、現在の九段合同庁舎(上記写真右側)が竣工されました。これを機に、公安調査庁は、新庁舎である九段合同庁舎へと移転し、それまで使用されていた憲兵司令部庁舎は、公安調査庁の「旧庁舎」という扱いとなります。
さらに、昭和61年(1986年)になると、老朽化が進んでいた旧庁舎は取り壊され、その跡地には新たに九段第二合同庁舎(上記写真左側)が竣工しました。こうして、戦前の憲兵司令部は記念碑などが設置されることもなく、その痕跡を物理的には残さないまま完全に姿を消すこととなったのです。
しかし、その後もこの地が“インテリジェンス活動の拠点”として継続されてきた事実に変わりはありません。憲兵司令部の後を継ぐかたちで、公安調査庁がこの地域に根を下ろし、情報収集を続けてきたのです。
なお、平成2年(1990年)には、霞ヶ関に中央合同庁舎6号館が完成し、公安調査庁の本庁は霞ヶ関へ移転しました。現在、九段合同庁舎に残っているのは「関東公安調査局」のみですが、引き続き情報収集の実働部隊として、九段下を拠点しています。

九段下:戦前は陸軍中野学校の源流も所在
九段下は、戦前から戦後にかけて、憲兵司令部や公安調査庁といったインテリジェンス機関の本拠地が集中していた地域です。そして、この地にはもう一つ重要な意味があります。それは、対外諜報を担う「陸軍中野学校」の源流となる組織が発祥した地でもあるという点です。
陸軍中野学校は、海外における諜報活動活動を担う人材育成を目的としたスパイ養成機関であり、その構想は、昭和12年(1937年)から始まりました。
しかし、当時の日本陸軍内では、諜報の重要性が十分に認識されていなかったため、大規模な校舎などは用意されません。仮校舎の開設地として選ばれたのが、九段下に所在していた「愛国婦人会」の本部別棟でした。
「愛国婦人会」は、戦死者の遺族や戦傷軍人の支援を目的とした民間団体であり、その社会的信頼を背景に、スパイ養成の仮庁舎を密かに設置するには都合が良かったと考えられます。
そして、昭和13年(1938年)、この校舎に「防諜研究所」が発足。同時期に、九段下には憲兵司令部も防諜活動を行っていたことから、何らかの連携や意識があった可能性も否定できません。
さらにこの組織は、のちに「後方勤務要員養成所」と改称され、より明確に人材育成機関としての性格を強めていきます。そして昭和14年(1939年)、本格的な養成機関としての運営を目指し、中野へと移転されることになりました。
現在の九段下には、陸軍中野学校が発祥したことを示す記念碑や遺構などは残されていません。しかし、インテリジェンス都市・東京の形成において、九段下が果たした歴史的役割は決して小さくありません。

中野:陸軍中野学校の正式開校地
昭和14年(1939年)、陸軍中野学校は九段下から中野へと移転し、陸軍参謀本部の直轄機関として正式に開校されました。これにより、日本における本格的なスパイ養成機関が誕生したのです。
当時の中野には、すでに陸軍憲兵学校が設置されており、陸軍中野学校の校舎は、その隣接地に開設されました。しかし、その存在は厳重に秘匿されており、在校生は軍服を着用せず私服での出入りが徹底されていました。そのため、隣接する憲兵学校の生徒たちですら、陸軍中野学校の存在を知らなかったとされています。
正式開校後の中野学校では、徹底したスパイ養成教育が実施され、移転前の九段下時代の「防諜研究所」とあわせて、延べ2000人を超える諜報員を輩出しました。
彼らの活動範囲は非常に広く、中国・満洲・欧米・インド・東南アジア・ソ連・ドイツなど、世界各地に派遣されました。任務は、軍事・政治・経済情報の収集、破壊工作やゲリラ指導、宣伝・謀略活動、潜入や防諜任務など多岐にわたりました。
日本陸軍のインテリジェンス活動を支える中核的存在となったのです。

しかし、戦況が次第に悪化する中で、陸軍中野学校の教育内容にも大きな変化が生じます。昭和19年(1944年)には、本土決戦や国内でのゲリラ戦を想定する必要が生じ、従来のような長期的な諜報工作教育から、短期集中型のゲリラ戦要員の育成が急務となります。
この流れを受けて、静岡県浜松市に「二俣分校」が開校され、一部のスパイ養成教育が中野から分散・移転されました。
そして、昭和20年(1945年)には、東京都内で空襲が激化し、ついに中野の本校自体が群馬県富岡市へ疎開することとなります。これにより、中野におけるスパイ養成教育は事実上中断され、陸軍中野学校の「中野時代」は終焉を迎えることになりました。

中野:戦後は警察官の養成拠点へ
第二次世界大戦の敗戦により、群馬県に疎開していたスパイ養成機関としての陸軍中野学校は、静岡県の二俣分校と共に解体されました。
戦後、中野の跡地には、昭和24年(1949年)に警察大学校や警視庁警察学校などの警察教育機関が集中的に移転。これにより中野は、約半世紀にわたって東京および全国の警察官を養成する中心的な拠点となりました。
つまり、中野は戦前の「スパイ養成の地」から戦後の「警察官育成の地」へと役割を変えていきます。
そして、陸軍中野学校で諜報技術を学んだ卒業生たちは、戦後の混乱と共に歴史の表舞台から姿を消しました。そのため、戦前に培われた対外諜報活動のスキルとノウハウや教育内容は、いつしか忘れ去られていきます。やがて、「中野は語らず」という言葉が残され、スパイ養成機関としての中野の記憶は、現代に引き継がれることなく幕を閉じることとなったのです。

戦前の防諜組織と戦後の継承:失われたインテリジェンスの系譜
一方で、戦前に防諜活動を担っていた特別高等警察や憲兵隊は、戦後の混乱の中でそのまま消え去ったわけではありません。旧特高警察のメンバーを中心に、公安警察や公安調査庁といった新たな組織が編成され、戦前の防諜機能の一部が戦後日本に継承されることとなりました。実際、公安調査庁は憲兵司令部の旧庁舎をそのまま拠点として使用するなど、組織と人材において一定の連続性が保たれたのです。
つまり、戦前の国内におけるスパイ摘発や防諜活動のスキルとノウハウは、公安警察と公安調査庁という組織を通じて、現在に至るまで細くとも受け継がれているというわけです。
一方、対外諜報活動を担った陸軍中野学校については、受け皿となる組織が誕生せず、戦後は、その庁舎の痕跡は消え去ってしまいました。校舎があった中野の跡地は現在、「中野四季の森公園」や「中野セントラルパーク」といった都市型公園やオフィスビルへと再開発されています。また、かつて中野に所在した警察大学校の跡地には「東京警察病院」が建設され、当時の面影をとどめるものは、敷地の一角にひっそりと佇む記念碑だけとなっています。

このように、陸軍中野学校の存在を示す明確な痕跡がほとんど残されていない現実こそ、戦後の日本が対外諜報機関を持たず、インテリジェンスに消極的であり続ける背景を象徴していると言えるでしょう。

永田町:戦後におけるインテリジェンス体制の再構築と現状
それでは戦後、日本のインテリジェンス機能の中枢はどのようになったのでしょうか。代表的な存在としては、内閣官房・内閣情報調査室があります。これは「官邸直属の情報機関」と位置づけられ、首相をはじめとする政府中枢に対し、政策立案に不可欠な情報を提供する役割を担っています。
ただし、この内閣情報調査室は、桜田門、九段下、中野といった戦前のインテリジェンス拠点とは距離的にも歴史的にもかけ離れた永田町の内閣府庁舎に位置しています。というのも、特高警察や憲兵隊の流れを汲む公安警察や公安調査庁とは異なり、内閣情報調査室は戦後に新たに創設された「情報機関」であり、戦前からの人的・組織的な連続性を持っていないためです。


永田町:戦後インテリジェンス体制の限界
内閣情報調査室は、米国中央情報局(CIA)を手本として、そのカウンターパートとなるよう創設された経緯があります。カウンターパートとは、特定の組織と連絡や調整を行う担当機関という意味です。組織構想が米国から日本に持ち込まれたという意味で、内閣情報調査室は「舶来情報機関」と言えるでしょう。これに対し、日本国内で発祥した特高警察を源流とする公安警察や公安調査庁は、いわば「和製情報機関」となります。
内閣情報調査室は、公安警察や公安調査庁のように、戦前からインテリジェンス機能のスキルとノウハウを引き継いではいません。故に、情報収集の現場業務については、主に他の「情報機関」からの出向者に依存しているのが実情です。
実際には、インテリジェンス・コミュニティー内の各機関の企画調整や、首相官邸との連絡役といった、コーディネーター的な役割が中心です。こうした役割からも、内閣情報調査室は「情報機関」というよりも、むしろ「情報官庁」としての性格を強く帯びていると言えるでしょう。

日本のインテリジェンス機能の将来
現在の日本には、対外諜報機関が存在しません。内閣情報調査室は「情報官庁」の役割にとどまり、公安警察や公安調査庁はあくまで治安機関であり、戦前の防諜活動の一部を細々と継承しているに過ぎません。外務省にも国際情報統括官組織という「情報機関」がありますが、その人員は約80人に過ぎず、海外情報を十分に収集・分析できる体制とは言えません。また、防衛省には日本最大の「情報機関」とされる情報本部がありますが、主に軍事情報が対象です。
陸軍中野学校からのスパイ養成の連続性が断たれていることもあり、日本が自ら海外情報を収集する本格的な対外諜報機関を持つことは、今なお困難な状況にあります。
しかし、現実の国際情勢はますます不安定です。中国による台湾有事の懸念、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとイランの衝突、インドとパキスタンの緊張――こうした突発的な戦争や紛争が相次ぐ中、各国は水面下で熾烈な諜報戦を繰り広げています。
さらに、トランプ政権の誕生以降、日本が国防や諜報を全面的に米国へ依存することも、次第に難しくなりつつあります。
将来、仮に日本が対外諜報機関を新設するとしたら――その拠点施設がどこに設けられるかは、大きな課題です。桜田門、九段下、中野といった伝統的なインテリジェンス拠点は戦後に姿を変え、永田町は官庁街としてすでに手狭であり、適地とは言えません。
新たな対外諜報機関がどこから始まるのか。その選択は、日本のインテリジェンス体制だけでなく、国の安全保障と未来を左右する分岐点となるのです。

以 上



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