情報リテラシー向上・情報総論001:噂話から情報そして知識へ至る歴史的過程と情報リテラシー

情報リテラシー向上

情報と知識:噂話から情報そして知識へ至る歴史的過程と情報リテラシー(IN-Literacy0001)

情報とは?

 一口に情報といってもその定義、意味、用法などは様々です。当ブログで取上げる情報とは、人から人へ伝わる情報であり、姿形を変えつつも古代から近代そして現代に至るまで人類社会の各所で用いられ、現代では「ヒューミント」(humimt)と呼称されるものです。これは、近代に入って誕生した「オシント」など電子情報と区別して概念化されています。情報とは、近代化以前から、さらに言えば、人類が文明を有する以前から、人類が過酷な環境下で生存と生殖を継続するに当たって不可欠であり、人から人へと口コミで伝わってきた必ずしも正しくはないものです。


 近代から現代にかけて、科学技術が著しく発展し、インターネットの普及で情報の総量及び意味が爆発的に拡大する中で、人類社会では情報自体がその性質を希薄化させつつあります。これは、「正しい情報」というタームがメディアやSNS上で使用されていることからも明らかでしょう。
 そもそも、「正しい情報」とは何でしょうか?「情報が正しい」とは何でしょうか?それでは「正しくない情報」とは何でしょうか?情報が氾濫する中で、情報に対するニーズと疑念が人類社会で噴出しています。「フェイクニュース」などというネット上で聞かれるタームは、その証左と言えるでしょう。
 

 結論から言えば、「正しい情報」などは人類社会で一度たりも存在したことがありません。人類社会は、この「正しさ」と共に歩んできた歴史がありますが、それは必ずしも「情報」と認知されてきたわけではありません。それでは、どう認知されてきたのでしょうか?「正しい情報」とは、元を辿れば、「知識」を指しています。知識こそが「正しい情報」なのです。
 知識が「正しい情報」であるならば、一般的に「情報」とは何を指すのでしょうか?情報は、「必ずしも正しいわけではない知識」と言い換えられます。知識と情報は厳然として区別されており、両者は、人類社会と共に併存してきたのです。

情報の由来

 そもそも情報とは、どこから生じたのでしょうか?その歴史は、人類社会の発祥にまで遡るといっても過言ではありません。人間が猿から進化する過程において、人と人との間で大きく進化したものの一つに言語機能があります。つまり、猿から進化する中で人と人が、言語を有さない動物のコミュニケーションを遥かに上回る複雑な意思疎通が可能となり、この意思疎通は、時間の経過と共に徐々に形成される人類社会において、日常的に最も主要に行われてきました。人として猿から独立を果たした人類は、この意思疎通によって多くの個体で団結し、人としての生存と生殖を持続可能な形式を確立させていきます。要するに、人類社会の人間たち、つまり人々は、日常生活で様々な会話、おしゃべり、雑談などを通じて無数の「事柄」を互いにやりとりしていったのです。これは本質的に、現代に至ってもなお変わることなく行われており、最も端的かつ明確に定義するならば、「噂話」に相当するでしょう。

 人類社会は、この噂話を個体間で無数にやり取りすることで、生存と生殖を繰り返してきたのです。現代のように科学技術を持たない古代の人類社会では、食糧を調達するための狩りに関するもの、地震、火山噴火、飢餓、疫病など生存を著しく侵しかねない天変地異に関するもの、子供を産んで育てるためのもの、などについて確たる概念が成立しておらず、これらについて互いの経験に基づいて話を交わすほか手段がありませんでした。こうした話は、信ぴょう性、つまりどの程度本当か分からないレベルの話が大半であり、こうした類のものは現在、信ぴょう性不明であるとして、又は噂話として認知されています。

 人類社会は、その成立から間も無くして、安定かつ安全な生存と生殖のために、こうした噂話の信ぴょう性を検証せざるを得ませんでした。現代のような科学技術を持たぬ過去の人類は、大小無数の噂話を気の遠くなるほど時間をかけて、集めては検証し、検証しては集め、集めては検証するというプロセスを繰り返して来たのです。歴史を重ねるほど個体数が増加して、拡大する人類社会では、こうした噂話の総量も増大の一途を辿り、検証プロセスもまた長大かつ複雑になっていきました。元々は、生存と生殖のために噂話の信ぴょう性を検証してきたものの、生存と生殖が安定して個体数が持続的に増大してくると、噂話は、生存と生殖に関するもの以外にも派生していくことになり、その活動領域は、商売、交通、娯楽、政治そして戦争へと爆発的に広がっていきます。同時に、噂話とその検証プロセスは、社会活動に全般的に求められるようになり、噂話という抽象的な概念は、次第に、物事や状況に関する知らせ(報せ)、つまり「情報」として人類社会で定義され、今日まで伝わってきました。

元スパイ・クマさん
元スパイ・クマさん

スパイが扱う情報とは、古代の人類社会から現代にまで伝わってきたんだよね。つまり、スパイもまた古来から存在する由緒正しき職業と言うことさ。

新人スパイくん
新人スパイくん

早く一人前のスパイになって、人類の歴史を解き明かすような情報を入手したい・・・

情報から知識へ

 人から人へと伝わる噂話に端を発した情報は、知識と深い関係があり、両者は親子に近いと言えます。古来(10万年余)から人類社会で人から人へ広がってきた正しいかどうか分からない特定の噂話は、後に情報として知識との比較概念として誕生します。情報とは要するに単なる噂話であって、因果関係が不明ながらも社会へ広く伝わり、気の遠くなる時間の経過の中で、意味や用法が固定化され、社会各所で定着したものに過ぎません。この定着が、何万年もの間、繰り返し人々の間で使い古される中で、個々の噂話の意味や用法が次第に固定化され、事実上、社会共通の概念へと発展していったのです。
 やがて、文明が誕生して、文字や書物が開発されると、社会共通の概念になりつつあった噂話が広く拾い集められて記録され、こうして記録された書物が保存されるようになります。つまり、いつの時代においても視覚化されて文字の読み書きができる者であれば、誰でもその概念にアクセスすることができるようになり、固定化が時代を経ることに一層進められていくのです。


 こうして、大元は人から人へ伝わった単なる噂話は、気の遠くなるような時間をかけて、途中からは書物で文字化されて記録され、人間社会に共通する概念として知られることで、「正しい」という社会的認知を得るに至った噂話が個々に登場していきます。これが今日に至って、我々の中で「正しい情報」、つまり知識として定義されたものです。

 
 一方、こうして知識に至る段階まで生存して発展する噂話は全体のほんの一握りであり、大半の噂話は、知識として現代に伝わる前の段階で忘却されて、その存在が我々の元にまで伝わることはありませんでした。つまり、知識とは、噂話を発端として成長してきた「情報の子供」であり、逆に情報は「知識の親」と言えます。情報が知識を生み出したのです。これが知識と情報の本質的な関係性であり、近代に至るまでは、ある程度明確に区別されてきました。なぜなら、知識と情報は、量的に圧倒的な差があったからです。

情報と情報の量的格差

 知識に対して、人々の日常生活における噂話に端を発して生じる情報は、あまりに膨大な量を誇っています。これは当然であり、人から人へ伝わる噂話は、人間社会における数多の人間の生存と生殖が存在する限り、無限に誕生してきたといっても過言ではないからです。
 古代から日常的に世界各地で、人間の生存に必要な狩猟、天災、猛獣、病気、対人関係など人類社会が存続する上で、信ぴょう性不明と考えられる噂話が数多誕生しては忘却されて、そのほんの一部が知識として生き残って現代まで伝わってきたからです。到底想像も付かない総量の噂話が存在していましたが、知識に至るまでその正しさが証明された噂話が多いわけがありません


 これが、知識と情報の健全な量的関係であり、これ自体は現代に至っても本質的に変わっていません。「正しい」知識と「必ずしも正しいとは限らない」情報とは、その量的な差によって分け隔てられ、量的に僅少である知識は書物などに記録されており、両者が混同することはありませんでした。しかし、現代においては、「正しい情報」などと、知識の歴史的な形成過程が忘却されてしまい、知識と情報との間で混同が見られていますが、この現象は何が原因でしょうか?

近代以降における情報の解放と知識の台頭

 情報と知識の混同が始まったのは、近代以降に特に顕著と考えられます。近代以前の封建社会においては、知識は文字の読み書きが可能な知識階級によって主に独占され、情報は支配階級によって主に独占されてきました。これは、日本の鎖国下にある江戸時代において、海外動向に関する情報が長崎の出島に限定され、幕府がその入手を独占していたことからも明らかです。
 一般庶民の多くは、文字の読み書きができず知識を入手することが困難であり、農民という身分故に日常生活に根ざした限定的な情報にアクセスすることが精々であり、情報は、知識と共に古来より人類社会の一部に独占されるほかありませんでした。ただ、これは飽くまでも近代以前における情報のあり方であり、人類社会は、科学技術を発展させる近代を迎えることで、情報は、急速にその所有者を変容させていきます。
 近代の幕開けに伴い、人類の大半が身分制度の桎梏から解放され、近代以前の支配階級は、その地位と権力を失いました。それは、支配階級によって独占されていた情報が、自由な言論活動を得つつあった一般庶民にまで降りてくることが想定されました。

情報リテラシーの向上機会の喪失

 しかし、情報は、想定されたほど一般庶民の間で広がることなく、むしろ広く普及したのは、知識の方でした。近代化政策に従って、普通教育が導入されて一般庶民の多くが国民教育を受けて識字率が向上することで、近代以前は、知識階級に独占されてきた読書が国民の間で行われるようになったためです。本来であれば、量的に知識を凌駕しているはずの情報が、知識に比べて社会に浸透せず、本来ある量に比べて過小にならざるを得ないという事態が生じました。

 
 識字率の向上とともに広まった知識と異なり、情報については、学校教育をはじめとする近代化政策の中で、特段の施策が講じられませんでした。というよりも、講じようがなかったというのが実態でしょう。書物で文字を使って明確に言語化されてきた知識と異なり、情報は、書物に書き留められるほど信ぴょう性を有しておらず、そもそも文字で言語化されて記録に残る性質を有していません。情報は、知識に比べて、その普及を図るに当たって、あまりにも抽象的な概念であったためです。


 こうした傾向には、近代の開始当初から現代に至るまで大きな変化が生じていませんでした。人類社会は、読書を通じて知識を得ることが知性を向上させる主な手段となり、知識を得ることで、新たな社会システムへの適応を試みたのです。近代以降、生きるために必要になったのは、噂話に端を発する情報ではなく、数多の書物を通じて得られる知識へと変化しました。知識の本質である正しさこそ、情報では確保し得ない信ぴょう性を実現させていたからです。

 知識に対して情報が普及の遅れを取ったことで、人類社会では、情報に関するリテラシーを向上させる機会を逸する要因ともなりました。こうした中、現代に入って急速に、インターネットの開発と普及に伴う高度な情報化社会が到来することで、人類社会は、「情報リテラシー」を備えないまま、情報を知識と同様の性質を有するものと扱わざるを得ないようになります。これこそ、「正しい情報」などという情報と知識を混同させる契機となったのです。

情報リテラシーの必要性

 人類社会は現在、膨大な情報をどのように捉えて、集めて、分析評価して、活用するというプロセスを最適化させることがないまま、情報を半ば知識の同類と考えて、情報に対しても知識同様の性質としての正しさを求めています。そして、情報と知識の混同が存在する故に、一見「正しい」と見られる情報がインターネット上を中心に氾濫してしまい、様々な詐欺や詐取が爆発的に横行しています。情報の数だけ「正しさ」が存在してしまうように信じられ、どの情報を信じて行動すれば良いのか分からず、社会的な混乱すら生じています。ネット(オンライン)上では、「ネット戦国時代」が叫ばれるほど混乱に拍車が掛かっており、さながら現実(オフライン)は、中世さながらの未発達な時代にまで歴史を巻き戻しています。


 いつの時代も読書を主要な手段として得ることが可能な知識と異なり、情報は、近代における技術の日進月歩に伴い、入手するための手段と機会が多様化と膨大化の一途です。今後も、情報の「正しさ」をめぐる社会的な混乱が収まるどころか、混迷する一方であることは容易に予想できます。このため、情報教育は知識以上に、リテラシーの向上が求められていると言えるでしょう。

情報リテラシーの使い手とは?

 それでは、情報リテラシーを向上させられるのが可能な社会層とは何者でしょうか。例えば、知識の場合、知識人をはじめとした知識階級が最適であり、すでに近代に入って以降、知識階級は、著書出版、講演などの言論活動を展開することで、知識の普及に貢献してきました。近代の幕開けになった明治から大正に至る大衆運動の拡大に、多大な影響を与えてきたと言えるでしょう。

 しかし、知識階級を有する知識と異なり、情報には「情報階級」と言うべき社会層が存在しませんこれまで「情報階級」が言論活動を展開して情報の普及に貢献してきた歴史などあり得ません。別に、情報を取り扱う社会層が不在というわけではなく、いつの時代も情報は人類社会で用いられてきたはずですが、情報を社会全体に向けて概念化、言語化、具体化、そして仕組み化する社会層が今日に至るまで現れていません。

 これは、情報という概念に常に、秘密性、秘匿性といったその所有者を限定せざるを得ないという特質が内在していることが一因です。歴史的に見れば、政治権力者が情報を収集する機能を独占しており、情報とは、一般庶民の間で社会的に広く扱われているようで、実は、信ぴょう性の高い希少な情報に限っては、少人数によって独占される傾向があるのです。例えば、忍者とは元々、古代における「間諜」(かんちょう、スパイ)に相当しますが、室町時代、特に戦国時代においては時の政治権力者である大名によって雇用されていました。忍者に代表される情報収集に長けたプロ、つまりスパイは、権力者との雇用形態の中でしか存在していなかったのです。このため、スパイという情報のプロが持つ経験、技術、ノウハウもまた、権力者によって独占されており、近代以前においても、これらが社会に浸透する機会はありませんでした。つまり、情報リテラシーに相当する概念を持つのはスパイと考えられますが、社会の片隅で非公然に生きるスパイの情報リテラシーが広まることなどあり得なかったのです。そもそも、情報漏洩という言葉の通り、情報は、社会全体に広まるばかりではなく、その流出自体をタブー視する傾向すらありますが、これは、権力者による情報独占を正当化していたかもしれません。

歴史的かつ社会的に広まらない情報という概念

 近代になって、民主主義が広まることで独裁権力が倒れて、国民が政治権力の主体となりましたが、スパイによる情報収集機能は、独裁者から近代国家が引き継ぐことで、結果的に情報リテラシーは普及する機会を失いました。その前に、近代教育によって知識リテラシーが広まったのは前述のとおりです。

 情報リテラシーの持ち主は、引き続き社会の一部に限定されて、日の目を見ることがないまま、人類は、インターネットの開発と普及によって、未曾有の高度な情報化社会を迎えたわけです。そして、人々は、情報リテラシーが不在のまま数多の情報に接する日々となり、その取り扱い方、特に正しいのか正しくないのか、という判断に明確な基準を見出すことができなくなります。それでも、膨大な情報を目前として選択の機会に晒されることになり、情報を取捨選択する上で知識レベルの正しさを用いるようになります。つまり情報が正しいのか正しくないのかの二元論に陥り、「正しい情報」を追い求めるようになったわけです。


 情報とは本質的に、必ずしも正しくわけではなく、むしろ間違った部分をいくらか内包していることから、「信ぴょう性」という概念で判断する必要があります。つまり、どこまでが正しくて、どこからが正しくないのか、間違っているのか、という思考が求められ、正誤の二元論にはなり得ないのです。こうして、人々は、間違った部分があるにも拘らず、「正しい情報」を追い求め、これが入手できたと考えると、自らの判断の根拠を全て「正しい情報」に置いてしまいます。そもそも間違った部分があるのが情報ですから、判断による行動結果にも想定外のものが含まれるのは当然でしょう。こうした想定外を繰り返さざるを得ないのが、現代の病巣といっても過言ではありません。

 情報のプロはそもそも「正しい情報」など信じていません。情報に対する信ぴょう性の評価を追い求め、信ぴょう性の高さに応じて、情報に基づく行動結果を推察します。これを四六時中繰り返すことで、情報に対する高いリテラシーを自然と身につけていきます。つまり、スパイこそ、社会の中で情報リテラシーに最も近い存在であり、その情報リテラシーこそ、現代の病巣を治癒するに当たって必要とされているかもしれません。

元スパイ・クマさん
元スパイ・クマさん

スパイは古代から情報を取り扱うプロであって、現代においても情報に関するリテラシーを自然に身につけているのだよ。その情報リテラシーこそ、必要とされているのではないかな?

新人スパイくん
新人スパイくん

スパイって、派手なアクションが目立っていたけれど、実は、古来から情報リテラシーを鍛えてきたという意味で、地味な職業なんですね。

以 上

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