日本に「スパイ防止法」が存在しない理由と実情とは?(SPY-NE017)
報道上で定期的に取り上げられる「スパイ防止法」の不在
2025年1月18日付け「現代ビジネス」電子版には、「時間がない…日本がいますぐにでも『対外情報機関』を作らなければならない『納得の理由』」と題した記事が掲載されました。
記事の一部には、「信頼された形で情報交換を行い得るためには、政府だけでなく立法府の関係者をも対象に置いた秘密保護法、厳罰を伴うスパイ防止法などの法制整備を急がなければいけません」とあり、「スパイ防止法」に関する言及があります。
(以下外部リンクとなります)
こうして「スパイ防止法」が言及される報道はかねてより少なくありませんが、なぜでしょうか。

「スパイ防止法」とは何か?
そもそも「スパイ防止法」とはどのような法律でしょうか。例えば、犯罪を取り締まる法律の代表格には刑法があります。刑法によって、「スパイ行為」を犯罪と規定すれば、スパイを逮捕できると考えられますので、「スパイ防止法」は一見不要です。
しかし、刑法と「スパイ防止法」では、主に3つの点で性質が異なっています。
第一に、刑法は原則、一般人による犯罪行為を取り締まることを目的としますが、「スパイ防止法」は、スパイ行為に特化した取り締まりが可能です。
例えば、刑法は原則、実際に犯罪を犯すまで逮捕することができませんが、「スパイ防止法」は、実際にスパイ行為を犯す前であっても、スパイ行為に該当する理由と証拠があれば逮捕することができます。「スパイ行為」は、長年にわたって水面下で行われる性質であり、いつから「スパイ行為」が実行されたのかは不透明になりがちです。このため、刑法では十分に対応できません。

第二に、刑法は一部の重大犯罪のみに極刑や終身刑が適用されますが、「スパイ防止法」は原則、極刑又は終身刑が適用されます。刑法では、「スパイ行為」の罪が軽くなってしまいますが、「スパイ防止法」では重くなり、「スパイ行為」に抑制効果があります。

第三に、刑法は、警察によって主に運用される法律ですが、「スパイ防止法」は、「スパイ行為」を取り締まる専門捜査機関によって運用されるのが一般的です。専門捜査機関は、諜報活動を防止することから「防諜機関」とも呼ばれます。

警察は、犯罪捜査、事故処理、パトロールなど多岐にわたって犯罪行為を取り締まることに専門性がありますが、故に「スパイ行為」の取り締まりという限定的な分野には必ずしも精通していません。「スパイ防止法」を運用する専門捜査機関は、「スパイ行為」のみに着目して捜査活動するため、その分、警察よりも効果的な取り締まりが期待できます。
例えば、麻薬の取締りについては、警察が主に取り締まりますが、その他にも厚生労働省の麻薬取締部も取り締まっています。ただ、麻薬取締部は警察と異なり、「おとり捜査」が認められています。「おとり捜査」とは、麻薬取締官が麻薬取引に応じるよう装うことであり、売人を直接特定できますので、その分、警察よりも効果的な摘発が期待できます。
麻薬取引を専門的に取り締まる麻薬取締部に対し、「スパイ行為」を専門的に取り締まるのが、「スパイ防止法」の専門捜査機関というわけです。つまり、麻薬取締部の「スパイ行為取り締まり版」といったところです。

世界各国で制定されている防諜法令:「スパイ防止法」の実例
世界中には、「スパイ防止法」が制定されている国がありますが、一口に「スパイ防止法」と言っても、その名称は様々です。
例えば、中国では、2014年に「反間諜法」が制定され、間諜とはスパイの古代表現ですから、一般的に「反スパイ法」と呼ばれています。スパイの名称が付けられているため、「スパイ防止法」であることが分かりやすいです。
米国では「スパイ活動防止法」(Espionage Act)が設けられており、こちらもスパイの名称が付けられているため、「スパイ防止法」となります。
一方、英国では、「公的秘密法」(Official Secrets Act)がありますが、スパイの名称が付けられていません。ただ、その中では、スパイ行為の禁止が規定されているため、「スパイ防止法」に当たると考えられます。同じく韓国でも「国家保安法」がありますが、こちらもスパイ行為の禁止が規定されているため、「スパイ防止法」と考えて良いでしょう。
他方、フランスでは、「スパイ防止法」に相当する個別の法律が見当たりませんが、刑法の中に、スパイ行為を禁じる趣旨の規定が存在します。こうした規定は、実質的に「スパイ防止法」と同様に運用されています。そのほか、ドイツなども、刑法の中でスパイ行為の禁止を定めています。
したがって、中国や米国のように、スパイの名称を付けて包括的な「スパイ防止法」を定める国もあれば、英国、フランス、ドイツ、ロシアのように、スパイの名称を付けた包括的な法律ではなく、刑法の中に個別的な「スパイ防止法」に相当する規定を置く国もあります。

世界各国の「スパイ防止法」に関する国際関係をめぐる実情
世界各国の「スパイ防止法」は、スパイの名称を法律名に使用するかどうかに大別されます。これは、何らかの形で「スパイ防止法」を制定すること自体が、国際社会、特に周辺国との間で摩擦を引き起こしかねないためです。
例えば、歴史的に複雑な関係にある中国と台湾が挙げられます。中国は、2014年に「反スパイ法」を制定しましたが、これはスパイの名称が法律名に使用されています。つまり、中国は、日本、台湾など周辺国に対し、中国へのスパイ行為を認めないとの強いメッセージを発したと言えます。国際的に威圧したと言っても過言ではありません。

一方、台湾では、2019年に「反浸透法」という法律が制定され、2022年には、「国家保安法」が改正されました。いずれもスパイの名称が使用されておらず、台湾政府は、「スパイ防止法」に当たらないとの立場です。実際には、中国のスパイを摘発する際に根拠法令として用いられており、「スパイ防止法」の実態があります。こうして名を捨てて実を取る形になったのは、台湾政府が、スパイの名称を付けた包括的な法律を制定すれば、中国の「反スパイ法」に対抗するメッセージになるからです。つまり、中国との諜報戦を激化させ、関係を急速に悪化させないよう配慮したのです。
「スパイ防止法」とは、世界各国が直面する個別事情が反映され、中国やロシアなど国際社会との対立をためらわない国々は、積極的に法整備を進める傾向があります。一方、日本など国際社会と協調しようとする国々は、法整備に消極的になる傾向があります。

日本など「スパイ防止法」不在の国々における実情
日本は、第二次世界大戦の敗戦を経て、国際社会に協調的になったため、「スパイ防止法」には消極的にならざるを得ません。周辺国には、日本が植民地とした韓国、日本と対立する北朝鮮、そして第二次世界大戦の戦勝国である中国があり、常に配慮が求められる立場です。
配慮とは、敗戦国として戦争責任を常に問われ、戦前の日本へ回帰しないよう求められることです。例えば、憲法9条で戦争と軍隊を否定し、自衛隊という専守防衛のための最小限度の戦力を保持するにとどめています。

こうした事情は、日本の国防に限らず、諜報においても同様です。日本の諜報機関は、自衛隊と同様に最小限度でなくてはならず、米国の中央情報局(CIA)のような本格的な対外諜報機関を事実上設置できません。対外諜報機関には、他国との戦争準備のために情報収集する一面があるからです。
対外諜報機関が設置できないならば、「スパイ防止法」も制定できません。「スパイ防止法」は、対外諜報機関が戦争準備するために収集した情報が、他国のスパイから奪われないようにする一面があるからです。日本が「スパイ防止法」を制定すれば、中国、韓国そして北朝鮮から、戦争準備しているとの批判を免れません。

特に、中国は、2014年に「反スパイ法」を制定し、これまで少なくとも日本人17人がスパイ容疑で拘束されました。2023年には、スパイ行為の定義が拡大されるなど改正されています。
こうした中、日本が「スパイ防止法」を制定すれば、これは、中国に対する対抗措置以外の何物でもありません。日本が中国人スパイをスパイ容疑で拘束すれば、中国が報復するために日本人をスパイ容疑で拘束してきます。日本と中国との間で、スパイ容疑による日本人と中国人の拘束合戦になりかねず、両国の人的交流は混乱するでしょう。中国が日本に対する戦勝国として優位に立つ以上、日本は中国に対して後手に回るほかありません。
これは日本に限ったことではなく、世界各国で「スパイ防止法」を制定していない国々には、制定したくてもできない個々の事情があるのです。

「普通の国」に向けて「スパイ防止法」が日本に根付きつつある実情も
日本は、敗戦から約80年にわたり、戦争責任を償い続け、世界有数の経済力を備え、国際社会に貢献することで、独立した主権国家として認められています。日本は、主権国家として国民の生命と財産を守る義務があり、そのために外交、国防、警察そして諜報などの分野で、世界標準の国家機能が求められます。つまり、世界中の国々と同じように「普通の国」になるということです。

例えば、2007年に防衛庁が防衛省へ格上げされましたが、これは世界標準に合わせるためです。近年は、自衛隊についても、護衛艦の一部を改修して空母機能の導入が図られています。現在、世界で空母を保有する国は10か国に満たず、日本が空母を事実上保有することになれば、世界標準の最先端に立つことを意味します。
「スパイ防止法」をはじめとする諜報分野においても例外ではありません。2022年には、経済安全保障推進法と重要土地等調査法が制定されました。これらは経済安全保障法制と総称されます。その中には、米軍基地や防衛関連施設などの周辺における土地の利用状況を調査し、必要があれば利用を規制する規定があります。表向きは、不動産取引という経済的な観点から安全保障が図られた法律ですが、各国の軍事基地周辺でスパイ活動を活発化させる中国が念頭に置かれています。
つまり、日本においても事実上の「スパイ防止法」に向けた法整備が始まったと考えられます。法律にスパイの名称を付けず、スパイ行為について明示的に規定しないまま、事実上はスパイ行為に対する抑止を図るわけです。自衛隊が最小限度の戦力とされていることと同じ意味で、最小限度の「スパイ防止法」というわけです。
今後は、経済安全保障法制の枠組みを拡大し、スパイ行為に関する規定を盛り込んでいけば、「スパイ防止法」と何ら変わらない法律へ生まれ変わることも可能です。これも例えば、自衛隊の護衛艦に空母機能が導入されつつあることと同じプロセスです。

「スパイ防止法」と表裏一体である日本の対外諜報機能の強化
「スパイ防止法」に向けた事実上の法整備が始まった今、対外諜報機関の設立も決して遠い未来ではないでしょう。「スパイ防止法」は、諜報活動の防御に当たり、自衛隊で言う専守防衛のようなものです。先ずは諜報活動の守りを固めるために「スパイ防止法」に向けて法整備します。
次は、対外諜報機関の設立によって諜報活動の攻撃を備えることになります。これも、自衛隊が空母という事実上の攻撃手段を持つことと同じです。
「スパイ防止法」と対外諜報機関は表裏一体の関係であり、どちらかが欠落すれば、残る一方も意味が無くなります。「スパイ防止法」によって、専門捜査機関や警察が他国のスパイを逮捕し、拘束しておくことで、日本のスパイが海外で拘束された際に、身柄交換の成立が可能になります。こうして初めて、日本の対外諜報機関には、世界中にスパイを送り込む下地が整います。

時間をかけて着実に「普通の国」となっていく日本
あくまでも日本は敗戦国であり、戦前と同様の国家体制を許されないことに変わりありません。故に、国際社会から批判が向かないよう時間をかけながら、着実に国家体制を回復して「普通の国」になるしか方法がありません。
そして、国内外から様々な批判があれども、日本は着実に「普通の国」へなりつつあります。「スパイ防止法」に関する法整備の現状は、日本がどの程度にまで「普通の国」になったかを端的に示す指標なのです。

以 上



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