情報と知識:情報と知識の混同による情報化社会の混乱(IN-Literacy002)
知識がもたらした功罪
「知識とは正確に記憶されるべきである」と言われれば、誰もがこれに同意するほかないでしょう。少なくとも「知識を間違えて覚えてもよい」と反論することができる者は決して多くはありません。我々は、物心がついて間もない頃から、学校へ通うようになり、そこでは、数字や文字を正しく記憶するための訓練を受けてきました。
これは、他ならぬ、知識を正しく理解し、計算を正しく行い、いずれも間違いのないように記憶するための準備段階です。つまり、数字や文字は、人類が積み重ねてきた叡智である正しい知識と計算の二つを身につけるための前提条件に過ぎません。これを前提条件とした正しさは何も、個々人が正しく生きるためではなく、ましてや人類社会の物事の成り立ちを正しく理解するためでもありません。飽くまでも、知識と計算という文字と数字で言語化されて確立された具体的な概念に対して必要とされる正しさです。
しかし、我々は、幼い頃から学校で、数多くの試験を通じて、知識と計算への正しさを叩き込まれ、学力テストの点数次第で優劣が明確にされたこともあり、その正しさに実像以上の義務感を感じているのではないでしょうか。その「正しい」が知識や計算を飛び越えて、何をやるにしても正しさが必要であり、間違えることを愚かと考えてしまうのではないでしょうか。
特に、知識は、検算という形で間違いを端的に修正できる計算と異なり、間違えて覚えた場合、その修正が計算ほど容易ではないという性質があります。故に、知識は、習得する段階で正しく覚えなければならないことを意味します。
知識と言っても、決して完璧な概念ではなく、「正しさ」の強迫観念を強いてくるという点で、功罪を兼ね備えたものと言えるでしょう。そして、この強迫観念が現在の高度な情報化社会で混乱と不安を生じさせる一因ともなっているのです。

知識を正しく記憶することの大切さ
もちろん、知識の正しさを全般的に疑うよう述べているわけではありません。知識は、人類の気の遠くなるような経験によって蓄積されて検証され、こうした経験の一部が広く普遍性を有することで、正しいと判断しても問題ないと判断され、書物で言語化されて容易に改変できないよう措置が講じられている概念です。
特に、近代以降の科学技術の誕生と発展によって、正しい知識とされてきた概念が繰り返し検証実験されており、知識は、歴史的な蓄積のみならず、科学という新たな人間技術によってその正しさを改めて認められるようになっています。こうした正しさの積み重ねがあり、知識を間違えたり、忘れたり、曖昧に覚えることは、時に重大な結果をもたらしかねません。
例えば、医師が患者に投与する薬剤の種類、用法、用量等を一桁でも誤ってしまえば、それは患者の生命と健康に深刻な影響をもたらすでしょう。中央政府の官僚が国民に広く行き渡る政策案の文字や数字を一字でも一桁でも誤ってしまえば、本来対象とすべき困窮者に援助が行き渡らず、国民の生命や健康を損なってしまうこともあるでしょう。
いずれにせよ知識として確立された概念を正しく記憶することが重要であることに変わりません。
知識を忘れることの問題点
たとえ、知識を正しく記憶しても、次は、知識を忘れるということも考えられます。知識である以上、忘れてしまえば、そこから何も取り出すことができません。人間社会が存続する上で、知識とは最低限度の前提であり、忘れてしまえばその存続に関わる問題すら発生しかねません。極端に言えば、他人の物を盗んでいけないとは、習慣やルールである以前に知識でもあるわけですから、これを忘れてしまう事態など極力避けたいでしょう。
他人の物を盗んではいけないというのは常識ですが、この常識もまた知識の一種ですから、正しく覚えて、忘れないようにすることが人間社会で生きる上で重要でしょう。

正しい知識という概念
こうして知識には正しさが常に求められ、正しい知識という概念が歴史的に確立されてきました。正しい知識は基本的に、書物で言語化され、気の遠くなるような時の長さを経て、現在にまで伝わっています。もはや、その正しさには、ある種の信用が生まれ、その正しさを信じて行動することで、人類の叡智を味方につけることが可能と考えられても不自然ではありません。
本を読むのが好きな人は常に一定数いますが、その主な目的はやはり知的好奇心、つまり正しい知識の収集というところではないでしょうか。
知識に対して優先的に求められるのは正しさであることに間違いはありません。しかし、この正しさとは、飽くまでも知識を対象と想定して考慮されているに過ぎないことを保留すべきです。知識以外についても、知識と同質及び同等の正しさが常に求められているわけではありません。

知識の正しさを改めて考え直すことで、情報における正しさと知る機会となるよ。情報と知識を区別するという意識が、スパイに求められることを覚えておこう!

情報と知識の違いや区別なんて、全く考えたことなかったけれど、似て非なるものなんですね!
知識以外における「正しい」という概念の確立
しかし、知識に求められる正しさは、高度な情報化社会を迎えて、あらゆる物事に至るまで拡張されているのではないでしょうか。情報は、人類が積み重ねてきた知識を遥かに上回る速度で発展し、その量は知識を超えて未曾有の規模となっています。そもそも、情報とは、古来の人類社会から、信ぴょう性不明な数多の噂話が口頭で不特定多数に伝達されることで、誕生した概念であり、こうした情報のうち、一部が歴史的に繰り返し伝えられて信ぴょう性が検証され、信ぴょう性が正しいとされるレベルにまで認められ、書物に文字で記録されることで、やがて知識という形で我々の元に伝わっているのです。
知識は、こうしたプロセスを有するが故に、正しいとされる概念であり、現在に至るまで正しさの象徴ともなっています。しかし、高度な情報化社会の中で、知識が霞んでしまうほど、情報が量で圧倒してしまいました。ここで社会的に問題となるのは、こうした大量の情報は、正しいのか正しくないのかという正しさに基づく捉え方です。つまり、知識の正しさは確立されている一方、情報の「正しさ」は確立されておらず、情報の見方考え方が不透明なのです。
こうして不透明でありながらも、情報は日々、大量の発生する社会となっており、情報無くしては生活に支障が生じることすらあり、情報の「正しさ」を判断するに待ったなしの状況になります。すると、情報の「正しさ」が未確立であるならば、知識の正しさを情報の「正しさ」へ転用するほかありません。なぜなら、知識は、人類社会にある正しさを唯一無二に体現してきたのですから。我々は、知識以外に正しいという概念を知らないのです。

知識の正しさを書物や勉強を通じて触れてきた我々ですが、情報というカテゴリーで情報の正しさを学習したことはありませんよね?

そういえば、情報を正しく学ぶなんて、聞いたことがない概念です。
間違えてはいけないという恐怖の襲来
しかし、大量の情報の「正しさ」を判断するに、知識の正しさを以て行うことには、そもそも無理があります。知識は、気の遠くなるくらい長きにわたってその正しさが検証されてきた概念です。一方、日々泡沫のように生じては消える情報には、何らかの正しさの検証が行われること自体が困難であり、知識と情報の間には本来、正しさの性質が根本的に異なるのです。
それでもなお、情報の「正しさ」が社会的に存在していない以上、知識の正しさを以て情報に対応するほかないのが現在の高度な情報化社会です。そうなると、正しくない情報を正しいと考えてしまう事態が頻発してしまいます。知識に相当するほどの正しさを有する情報が絶対数として多かろうわけありませんから。
正しくない情報を根拠に決定と行動を繰り返すことで、想定しない間違った結果が生じるのも無理もありません。正しい知識を根拠にして決定と行動を繰り返すからこそ、想定内の結果が生じることになり、人間社会は、知識によって間違いを避けることができてきたわけです。知識によって間違えることが回避されてきた歴史がある故に、我々はそもそも、間違えることに対して一種の恐怖感や羞恥心を有しています。
そこで、高度な情報化社会となり、正しいのか分からない情報を根拠に行動することで、間違えた結果が生じるようになると、我々の間違えることになる恐怖感や羞恥心を徐々に回避できなくなります。やがて、間違えることへの恐怖感や羞恥心が日常的に現れるようになります。

信用創造への懸念となる間違い
間違えることへの恐怖感や羞恥心の背景には、信用を失うという不安が常に存在しています。当然ですが、他者に対して間違えたことばかり言えば、その言動からは信用が失われます。故に、我々は、知識という形で正しさを積み重ね、その積み重ねを体得して対外発信することで、生きるための信用を入手してきたのです。故に、正しい知識を数多記憶する知識人は、人類社会の中で多くの信用を得てきました。困ったことがあれば、知識人に相談して、その知識を借りることで、解決できたのですから。
間違えることこそ、信用を失う最たる結果であり、正しくあることこそ、信用を得る最たる結果なのです。
つまり、正しさは信用と表裏一体であり、両者は本質的に一体化した概念であると言っても過言ではありません。
信用を得るためには、常に正しくあろうという意識が必要であり、これは、個人のみならず人類社会の集団意識でもあるのです。
「正しさ」に縛られる思考の始まり
同時に、正しさが常に求められるという思考が次第に定着していきますが、ここで改めて忘れていけないのは、正しさの大元の発信地は飽くまでも知識であるということです。この正しさはそもそも、知識に対して求められるのであって、社会全体のあらゆる概念や事象を想定したものではありません。
知識の正しさは歴史的な検証の賜物であって、歴史的に存在しない概念や事象には対応していません。しかし、その正しさは、信用と結びつくことでいつの間にか社会に広く拡張され、あらゆる概念や事象にまで適応されるようになっていきます。そして、この「正しさ」という強迫観念によって、人間の思考が縛られるようにもなります。
「信用過剰社会」の誕生へ
間違えることへの恐怖感と羞恥心、そして情報をはじめあらゆる概念や事象にまで行き渡る「正しさ」は、社会的な信用を得る上で、重要な要素となります。この要素を蔑ろにして信用を手に入れることはできません。
これは、あらゆる概念や事象において、間違えることが忌避され、「正しさ」が求められるという集団意識が強まっていくことを意味します。つまり、信用が過剰なまでに意識される社会が到来するのです。わずかでも間違えたり、「正しさ」を失うことで、信用が損なわれるという発想が社会で支配的になっていくのです。これを当ブログでは「信用過剰社会」と呼称します。

信用過剰社会における情報の退化
信用過剰社会では、情報という概念は退化せざるを得ません。なぜなら、情報とは日々、誕生しては失われる泡沫事象であって、その正しさを検証するだけの歴史的なプロセスとは事実上無縁と言って差し支えない性質だからです。知識に匹敵する「正しさ」を持つ情報など存在しようがありません。
そして、信用過剰社会を覆う「正しさ」が情報と結びついてしまうと、「正しい情報」という矛盾した概念が生まれてしまうのです。「正しい知識」ならぬ「正しい情報」というわけです。仮に、「正しい情報」が存在するのであれば、「正しい知識」とは何を指すのでしょうか。
情報の本質は、この「正しさ」によって歪められ、情報化社会を迎えてむしろ退化してしまったと言えるでしょう。
情報の本質はいくたりかの正しさと間違い
情報のプロに言わせれば、情報の本質は、「いくたりかの正しさといくたりかの間違いの混在」となります。100パーセント正しい情報など存在せず、仮に存在するとすれば、情報のプロなど必要ではありません。それは、100パーセント正しい情報とは即ち知識であり、それは知識のプロ即ち知識人が取り扱うべきものなのです。
情報のプロが取り扱うのは、100パーセント正しい情報即ち知識ではなく、「いくたりかの正しさといくたりかの間違いの混在」である情報なのです。

スパイが扱うのは飽くまでも情報であって、情報に含まれた「いくたりかの正しさといくたりかの間違い」こそ、スパイが追求する情報の本質です。スパイになるためには、書物や学校で習ってきた正しさと一旦、距離を置くことが重要ですね。

それはやはり、正解が存在しないということでしょうか・・・情報の数だけ、混在した正解と不正解があるなんて、スパイになるためには、考え方を変えないとムリそう・・・
以 上


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