情報と知識:正しいではなく「より正しい」を目指す(IN-Literacy005)
どこまでも性質的に相容れない知識と情報
ここまでは、情報に間違いや忘却があるという前提を提示し、こうした前提を受け止めるため、間違いや忘却を肯定するよう提案しました。むしろ忘却することで情報の要不要を切り分け、必要な情報を積み重ねていくことで、あらゆる事象における共通点を取り出し、これを信ぴょう性という概念で、より正しいと捉えるというプロセスを説明しました。
こうした情報の特質はおよそ知識とは到底相容れないものであり、知識の正しさと信用を基礎とした学校教育や社会生活を送れば、一朝一夕に理解できないでしょう。逆に言えば、それくらい情報に対する社会の理解と認識は、ほぼ浸透していないと言えます。
知識という概念で情報化社会を生きることの意味
情報とは、知識に至ることがおおよそあり得ない真偽不明な事象の集合体であり、これは、古代の人間社会から変わらない本質です。こうした情報の一部が歴史的な時間経過を経て、社会に定着することで、いつの間にか知識として認識されることになりました。知識とは、数限りない数多の情報を時間という概念で濾過された濃縮物とも表現できるかもしれません。
人間社会の発展が緩やかであった近代以前においては、同じく情報の発達速度も緩やかであり、社会における情報の総量も安定的でした。情報は、字の読み書きができない人々の間で日常的に用いられるものに過ぎず、近代に比べたら農業を基幹産業とした単純な社会構造であるが故に、真偽不明ながらも周囲にありふれた情報を利用することで、生活上に大きな支障は生じませんでした。正しい知識が必要となった場合、字の読み書きに長けて読書を積み重ねた者に質問すれば事足りたのです。
しかし、近代に入って、人類の科学技術が発展普及し、これに応じて新たな事象が急速に増加していきました。人間社会に存在していなかった機械や社会制度が次々と誕生し、人々は否が応でも、日常生活の中でこれらに関与せざるを得なくなります。このため、近代以後の日常生活は、本当に関与しても問題ないのか分からない事象で満たされていき、それ故に不安や恐怖が芽生えていきます。なぜなら、近代以前であれば、人々が見たことも聞いたこともない事象に遭遇した場合、知識のある者に質問することで、過去に存在したことのあるのか、その実態が何なのかという知識を得ることができ、安心感を得ることができたからです。
ただ、近代に入って、人々にとって未知の事象が発生し、知識による検証が追いつかないレベルともなると、これらに関する知識を得られないままとなります。もはや従来までの知識で対応できる範囲を超えており、読書を積み重ねた者ですら判断不能ともなります。これは、数多の情報から知識が生じてきた歴史的プロセスを鑑みれば当然のことであり、先ずは、真偽不明な情報があって、そこから正しい知識が生まれるという順番があるためです。膨大な情報に対して、希少な知識が対応可能な範囲は常に限定的であり、情報の増大速度が上昇すれば、知識が置いてきぼりにされるわけです。
知識という歴史的に有効な検証手段を事実上の機能不全に陥れたのが、近代における情報化社会です。もはや、日々増加する有象無象な情報に対しては、知識による正しさの検証を以て対応するのではなく、情報が持つ信ぴょう性という特質を以て対応する方が賢明です。正しいではなく、より正しいという信ぴょう性の積み重ねこそ、情報化社会における信用の基礎となるためです。

信用を得る上で必要とされる情報
情報化社会の中で、人々は、膨大な事象を次々と生み出す情報の濁流に飲み込まれています。もはや、知識による検証が事実上困難となり、何が正しくて何が間違っているのか分からない日常生活を送っているのです。つまり、人間社会では、様々な情報に対する正誤や真偽を確かめてほしいという需要がこれまで以上に高まっていると言えます。
これは、信用を得る手段が従来に比べて様変わりしたとも言えます。近代以前では、知識こそ信用の源泉の一つであり、日常生活で困ったことがあれば、正しい知識を授けて問題解決に役立つ者こそ、社会的信用を得ることができました。ただ、これは、近代以前の社会環境に限った話であり、近代以後の高度な情報化社会では、知識による正しさの検証が追いつかず、知識は従来ほど信用を得ることが叶いません。 一方、情報化社会であれば、情報に精通した者に信用が集まるようになるのは必然です。特に、社会に散らばる大小様々な真偽不明の情報を集め、どこまで信じることが妥当と考えられるかという信ぴょう性を分析して評価し、信ぴょう性を一定程度確保した情報を利用して、どのように決断を下して行動するかまで提示できれば、社会的信用を得られます。
つまり、知識という概念を使うのではなく、どこまでいっても情報という概念で物事を突き詰めて考えられるかということが信用を得る上で有効なのです。言い換えると、100%正しいを探すのではなく、なるべく正しい、まあまあ正しいくらいの温度感で判断できるようにするということです。

「信用過剰社会」に対抗するための間違いと忘却
信用はこれまで、知識の持つ正しさによって生み出されてきました。正しいことが信用に繋がり、信用を得るためには正しくなければならず、間違えたり忘れてしまうと信用を失うという社会的認知が形成されてきました。これは時に、信用を過剰に意識して決定や行動に制限が課されるという心理を社会全体に投げかけます。こうした「信用過剰社会」が歴史的に成立してしまうと、正しさが一人歩きを始めて、間違いにや忘却に対する心理的嫌悪すら生じかねません。
近代の学校教育では、正誤を問う学力テストが繰り返され、間違いが少ないほど優秀と評価されます。学校での評価は、学歴と相関関係を持ち、学歴の高さは豊かな社会的信用を生み出します。この豊かな社会的信用は、有名企業や公官庁への就職と相関し、そこで多額かつ安定した収入を得られるようになります。こうなれば、いかに間違えないよう努めるかという取り組みこそ何よりも必要と意識され、正しさは求められ、間違いが忌避されるのは自然でしょう。
同じく、忘れるということも社会的信用を失う要因です。近代の学校の学力テストは、正誤を問うと同時に、忘れないよう記憶できているかということも問うてきます。正しいのみならず、その正しさを違わないよう記憶し、問題解決に応じて正確に復元できるかと評価されます。この評価に応じて、学力が評価され、学歴に影響し、その後の就職と収入へつながるため、記憶することが求められ、忘れることは忌避されます。これを裏付けるように、かつては雑誌広告の一部に「脅威の記憶術」などと銘打ったものが散見されました。
(以下外部リンクとなります)

近代以降、正しく記憶して、間違えずに忘れないことは、人間の深層意識に打ち込まれた信用という楔となり、この楔こそ「信用過剰社会」を到来させて成立させた原因です。そして、「信用過剰社会」は知識と相性が良く、知識は正しく記憶することが必要とされているためです。近代以前から歴史的に社会的信用を有する知識は、近代以後に誕生した「信用過剰社会」と結び付くことで、信用創造装置として機能します。
しかし、近代以後の高度な情報化社会では、真偽不明な情報に基づく従来まで見たことのない事象が社会に溢れていきます。人間社会は、知識の記憶で対応可能な範囲を超えて、真偽を確かめる手段を急速に枯渇させていきます。これは「信用過剰社会」において、信用の源泉となる正しく記憶して間違えずに忘れないという楔が機能不全に陥ったことを示しています。むしろ、どうしたら信用を得られるかという社会的な不信が広がっていきます。高度な情報化社会では、人間に対して正しさを求めて忘れないようにすることなど事実上不可能なのです。
人間はそもそも、間違える生き物であり、忘れる生き物ですが、信用を生み出すために、この本質がねじ曲げられて、正しく忘れないという圧力が人間全体に加えられてきたのです。

人間は時に間違えるし、時には忘れる。これは人間が人間である限り、変わらない本質のはずだけど、近代の社会発展の中では、見向きされないようにされてきたんだよ。そして、限界に達しようとしている。情報リテラシーは、この限界が近いことを我々に教えてくれているよ。

スパイになるために、大学受験や国家試験を通過してきたのに、そこで得た経験や知識は、情報の仕事で必ずしも役に立たないということですか!?
正しく忘れないよりもなるべく間違えずにさっさと忘れてしまう
近代以降の高度な情報化社会では、人間の脳が取り扱うことが可能な情報の総量を遥かに超えており、情報の氾濫は止まるところを知りません。それより、間違えることはあってもなるべく間違えない、忘れるのは当然であって必要でないことは積極的に忘れてしまうという取り組みこそ、高度な情報化社会を乗り切る上で最大のポイントとなるでしょう。
ただ、間違えても忘れてもよいと言っても、学校や社会で形成された「信用過剰社会」の中では、信用を失うかもしれないという懸念が常につきまとうでしょう。この懸念とどう対峙していくかが、情報リテラシーを身に付ける上で最大の難所とも言えます。
高度な情報化社会では、情報を取り扱うスキルとノウハウ、つまり「情報リテラシー」に長けた者が社会的信用を集めやすいと言えます。そして、情報リテラシーには、正しくなくてもよい、間違えてもよい、忘れてもよい、でもなるべく正しい方がよい、たとえ間違えたり、忘れたとしても、人生が終わってしまうような深刻な結果が生じなければよい、という思考が求められます。このため、信用を失いかねない恐怖と不安がつきまとう「信用過剰社会」から心理的に離脱する必要があります。そして、間違えながらも忘れながらも、より良い結果を積み重ねていく過程で、社会的信用が生じていき、従来までの「信用過剰社会」と相関しない別種の信用を入手することができるのです。

間違いや忘却がもたらす結果を考慮
ただ、情報リテラシーでは、無制限かつ無原則に間違えたり、忘れたりしてよいとされません。原則としては、間違えないことや忘れないことが情報リテラシーにおいても最も重視されており、本質的に知識と変わりません。ただ、近代の誕生という人間社会の歴史的な変遷を受けて、間違えることも忘れることも一定程度、受け入れる必要に迫れられているためです。
それでは、間違えることや忘れることでどのような結果が生じるのでしょうか。信用を失うならば、それはどういう経緯や仕組みで起こり得るのでしょうか。そもそも、間違えることや忘れることで失われる信用とは、どのような性質でしょうか。そこまでして失ってはならない信用など存在するのでしょうか。本当にその信用が必要とされているのでしょうか。そのような信用を失うと実際、どうなるのでしょうか。
「信用過剰社会」では、信用をひたすら集めて、信用を失わないようにすることに意識が過剰に集中しがちであり、信用の内実について議論が深まる様子はありません。人々は、信用の無謬性を無意識に信じてしまい、信用自体が次第に一人歩きを始めて、人間に取り扱うことができないような困難かつ巨大な概念へと様変わりしていきます。もはや、「信用過剰社会」の信用とは、人間を支配する一種の「怪物」とすら表現できます。この怪物こそ、信用を失うことで結果的に起こり得る不安と恐怖を社会全体に振り撒き、人々を更なる不信へと駆り立てているのです。
故に、この怪物が振り撒いた不安と恐怖を受け止め、冷静に分析して、信用が失われるという結果を改めて検証する必要があります。
実際、科学技術が発展した現代においても、社会のどこかで間違いや忘却が発生し、メディアで報道されて損害や結果について言及されます。こうして広く耳目を集めるような間違いや忘却とは、どのように信用を失うのでしょうか。そもそも社会的反響を呼ぶようなレベルの間違いや忘却と、社会的に無名な個人レベルの間違いや忘却とは、信用を失うという観点で同列に論じてよいのでしょうか。
例えば、医師の間違いとバイト店員の間違いとは信用という点において同列に論じられる性質でしょうか。医師とは、歴史的に社会的信用の高い職業の一つです。医師は、人間の生命と健康という重大かつ深刻な価値を取り扱うプロであるからです。逆に言えば、医師が何かを間違えることがあれば、それは、人間の生命と健康に支障を及ぼしかねないため、間違いが認められるなどと安易に受容すべきでありません。医師は、結果次第で信用が大きく左右されることから、信用こそ常に念頭に置かねばならないわけです。ただ、これは、医師という人間の生命と健康に重大かつ深刻な結果を及ぼしかねないという信用事情にある場合の話です。
逆に、こうした信用事情にない職業であれば、間違えることを受け入れても重大かつ深刻な結果が生じるとそれほど考慮する必要はありません。何かしらの店舗に勤めるバイト店員の場合、商品棚に商品を置き間違えたり、値札の値段を間違えたりしても、人間の生命と健康に何らかの影響をもたらす可能性は医師に比べて低いでしょう。これは、バイト店員の職責を軽んじたものではなく、人間社会には、起こり得る結果に応じて社会的信用の大小が異なるという仕組みがあります。 それなのに、こうした信用事情を考慮することなく、いついかなる場合でも、信用を失うことを懸念して、間違えることや忘れること自体を忌避するのは、信用を過剰に意識した結果ではないでしょうか。
信用の性質、種類、内容などを考慮し、そこから間違えることや忘れることに伴って信用を失うことの性質、種類、内容などを想定する必要があります。こうしなければ、間違えることや忘れることに対する許容度が高まらず、間違えることや忘れること自体を前提とする情報の「信ぴょう性」という概念を扱うことは不可能です。信ぴょう性とは、起こり得る結果から逆算して、どこまで信じてよいか、これ以上信じてはいけないのはどこか、というグレーゾーンを追及する概念であるためです。

わずかでもより正しい情報を集める
情報の信ぴょう性とは、ある情報を信じることで生じ得る被害を想定し、その想定を鑑みて、どこまで信じてよいかということを判断する概念です。100%正しい情報など存在しておらず、いかなる情報も正しいと言えるのは最大で99%までであり、逆にいかなる虚偽情報も1%の正しさを伴っています。常に、情報は、正しさと間違いが不可分の混合物であり、正しさのみを切り離すことはできません。故に、情報の正しい部分がもたらす結果と、情報の間違いの部分がもたらす結果を比較する必要があります。正しい部分がもたらす結果が間違いの部分がもたらす結果を上回ると判断される場合、双方の量的概念に応じて信じることが可能な度合いを決めます。

正しさと間違いが不可分である以上、正しい部分の領域が広くなれば、その分、間違いの領域の部分が狭くなり、双方は相対的な関係にあると言えます。故に、正しい部分の領域をいかに広げていくかによって、ここまでは信じても大丈夫という信ぴょう性が高まるのです。この信じてもよいという部分を広くすることが何よりも大切です。そして、間違えることがあっても、信じてもよい部分が十分にあるならば、間違えることによる想定し得ない結果を受け入れてもよいとも考えられるようになります。

たとえ、正しい部分の領域が間違いの部分の領域に比べて狭いとしても、つまり、信ぴょう性が低いとしても、間違えることによって想定される結果よりも、正しいことによって想定される結果の方が望ましいと判断される場合、信ぴょう性が低くても信じても構わないとも考えることが可能となります。ましてや、こうした場合、正しい部分の領域を広げることができれば、ますます判断が容易になるでしょう。

いずれにしても、間違いによって想定される結果は常に念頭に置かれており、これは、間違えることによって信用が失われることへの不安や恐怖と無縁と言えます。むしろ、情報の信ぴょう性に応じて、いかなる結果が生じるかを想定し、そこから最も望ましいと考えられる判断を下して行動するというプロセスを提示することが重要です。こうしてプロセスを提示できれば、仮に、情報が間違えていたとしても、想定内の結果に収めることができて、結果として信用を得ることが可能です。間違いがあっても信用を得るというのは、間違えることで信用を失うと信じられがちな「信用過剰社会」とは、真逆の事象です。
したがって、間違えることで得られる信用こそ、情報リテラシーが生み出す信用であり、高度な情報化社会を生き抜くために必要なものです。

スパイは、近代以前から存在する、必ずしも正しくないという情報の信ぴょう性で信用を得ている。こうした信用を得る方法は、間違いや忘却を忌避する「信用過剰社会」において異質と言えるだろうね。

正解を記憶することは何度もやったけれど、間違えたり、忘れたりするのはあまり訓練したことがないな・・・それで信用が得られるなんて全然信じられませんが・・・
以 上



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