スパイ養成の地・陸軍中野学校二俣分校──戦前に密かに行われたスパイ教育、その旧跡を訪ねて(SPY-NE043)
- 戦後80年、日本の「インテリジェンス」が再び問われている
- 戦前日本に実在した「スパイ養成機関」──陸軍中野学校とは?
- スパイ教育からゲリラ戦の特訓へ──東京から静岡・二俣への移行
- なぜ、二俣に「分校」が置かれたのか──山奥の静かな理由
- 歴史的背景──戦国時代から「要害の地」とされた二俣
- 地理的側面──険しい山と川が生み出した「天然の訓練場」
- 情報的側面──「誰にも見られない場所」が成立した理由
- 二俣分校で鍛えられた者たち──800名超のゲリラ戦要員
- 戦後も諜報の使命を貫いた男──小野田寛郎、29年のゲリラ戦
- 二俣で叩き込まれた教えが支えた29年のサバイバル
- 小野田氏の帰還が呼び覚ました「二俣分校」の記憶
- 今も静かに佇む、二俣分校跡地の記念碑
- 『エヴァンゲリオン』の舞台モデルにもなった、二俣の町
- 歴史の節目に現れる「二俣」という場所の不思議な吸引力
戦後80年、日本の「インテリジェンス」が再び問われている
2025年、戦後80年の節目を迎える今、日本のインテリジェンス機能(諜報・防諜体制)についての議論が再燃しています。7月の参議院選挙では、「スパイ防止法」の是非が重要な争点のひとつに浮上。与野党の公約でも賛否が分かれ、国民の間でも意見が割れました。
スパイ防止法は、外国の「スパイ活動」を摘発・抑止するための法整備であり、主要先進国の中で日本だけが整備を怠ってきた分野です。その背景には、戦後の平和憲法、戦前への反発、そして諜報活動に対するアレルギー感がありました。
しかし、現代の国際社会では、国家安全保障の中核に「情報戦」が位置づけられているのが常識です。今、日本でもようやく「情報収集」や「諜報工作」を含むインテリジェンス体制の必要性が、公の議論に上がり始めています。
本稿では、こうした現在の流れを踏まえ、かつて日本が有していた本格的なスパイ養成機関の陸軍中野学校と、その静岡県浜松市・二俣に存在した二俣分校の旧跡を訪れ、現地取材をもとに、その歴史と記憶を辿ります。

戦前日本に実在した「スパイ養成機関」──陸軍中野学校とは?
戦時中の東京・中野には、後に「陸軍中野学校」として知られる日本陸軍のスパイ養成機関が存在していました。
その存在は当時、極秘扱いとされ、一般には一切知られていませんでした。広く世間の知るところとなったのは、戦後20年以上を経た1966年。俳優・市川雷蔵主演の大映映画『陸軍中野学校』が公開され、話題を呼んだことがきっかけです。この映画はその後シリーズ化され、娯楽作品として一定の人気を博しました。

しかし、さらに世間を驚かせたのは1974年。フィリピン・ルバング島でおよそ30年近く潜伏していた元日本兵、小野田寛郎(おのだ・ひろお)氏が帰国したニュースでした。小野田氏は、戦後もゲリラ戦を継続していた中野学校・二俣分校の卒業生。終戦の命令が届かなかった彼は、現地住民や米軍を相手に、独力で戦い続けていたのです。
この驚くべき帰還劇により、小野田氏の背景にあった陸軍中野学校の存在、そしてその分校が静岡県浜松市で秘密裏に運営されていたことに、あらためて注目が集まりました。

スパイ教育からゲリラ戦の特訓へ──東京から静岡・二俣への移行
小野田寛郎氏が在籍していた陸軍中野学校・二俣分校とは、一体どのような施設だったのでしょうか。
もともと陸軍中野学校は、1937年に東京・九段下に発祥し、1940年には中野へ移転して正式に開校した日本陸軍のスパイ養成機関です。当時の日本は、満州事変から日中戦争へと戦火が拡大する中で、大規模な兵力や兵器を投入する通常戦では限界を感じつつありました。そうした状況を受けて、諜報、宣伝、破壊工作、謀略など、情報を武器とする「秘密戦」の導入が急務となっていきます。
こうして中野学校では、秘密戦を担う諜報員──つまりスパイの養成が本格的に始まったのです。
しかし、戦況がさらに悪化する中で、単なる潜入・情報収集ではなく、より直接的な軍事行動としてのゲリラ戦が必要とされるようになります。情報戦による長期的な成果ではなく、敵の後方をかく乱する即効的な戦果が求められたのです。これに伴い、陸軍中野学校は教育方針を変更。スパイ教育中心から、ゲリラ戦要員の育成へとシフトしていきます。
その実践的訓練のため、都市部である東京ではなく、山岳や森林に囲まれた本格的な訓練環境が必要とされました。こうして1944年、現在の静岡県浜松市天竜区二俣町に二俣分校が開校。ゲリラ戦を想定した実戦的な教育が始まったのです。


なぜ、二俣に「分校」が置かれたのか──山奥の静かな理由
ゲリラ戦とは、敵の予測を裏切る奇襲、撹乱、待ち伏せなどを駆使し、正規軍の背後を突く戦闘形態です。こうした作戦を成功させるには、山林や渓谷といった自然の地形を活かし、敵からの発見を逃れる隠密性が欠かせません。
その意味で、都市部の真ん中にあった東京・中野の本校では、実戦的なゲリラ訓練には不向きでした。訓練の性質からして、人里離れた山奥に移転するのは当然の流れだったのです。自然環境に恵まれた土地であれば、日本国内に候補は多く存在します。しかし、最終的に選ばれたのが、現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣でした。
日本全国の各所に所在する自然環境の中で、なぜあえてこの場所が選ばれたのか——そこにはいくつかの地理的・歴史的・戦略的な理由が存在していたのです。

歴史的背景──戦国時代から「要害の地」とされた二俣
「二俣」という地名が歴史に登場するのは、戦国時代(1500年代)までさかのぼります。この地に築かれたのが、二俣城(ふたまたじょう)です。
当時、現在の静岡県西部にあたる遠江(とおとうみ)の国は、戦国大名となった今川氏の支配下にありました。二俣城も、今川氏によって築かれたとされています。その後、今川氏が没落すると、城の支配権を巡って争ったのが、現在の山梨県に当たる甲斐の武田氏と、愛知県東部に当たる三河の徳川氏でした。
つまり、二俣は、甲信地方から東海地方をつなぐ交通の要衝であり、武田と徳川が奪い合うほど古くから注目されていた土地だったのです。

二俣が度々争いの舞台となった背景には、その地理的条件の優位性があります。
この地は、現在も日本の大動脈である東海道沿いに位置し、さらにすぐ近くには天竜川が流れています。かつての軍勢にとって、水の確保は、長距離移動における作戦の成否を分ける要素でした。天竜川の豊かな水系は、行軍中の補給地として極めて重要だったのです。
こうした利点は、戦国時代のみならず、二俣分校が開校された昭和期にも共通していました。当時、東京から二俣までは東海道を経由して比較的スムーズにアクセスでき、水資源も豊富。都市部から離れつつも交通の便が良く、訓練地としての条件が整っていたことが、分校設置の決め手となったのです。

地理的側面──険しい山と川が生み出した「天然の訓練場」
二俣の地は、四方を山々に囲まれた深い山間部に位置しています。そして、その中央を、長野県から愛知県を経て静岡へと流れる天竜川が、東西を分かつように貫いています。
この天竜川は、古くから「暴れ天竜」とも呼ばれ、幾度となく氾濫を繰り返してきたことで知られます。その度重なる水害によって、川沿いの地形は常に変化し、山腹や谷にまで土砂が堆積する荒々しい自然環境が形成されてきました。その結果、この地域は人の手が入りにくく、開発が遅れた分だけ自然が色濃く残された土地でもあります。まさに、敵に察知されず訓練を行うには最適の「天然の訓練場」と呼べる地形です。
現代においても、その険しさは健在です。ダム開発や河川整備が進んだとはいえ、天竜川沿いには今なお切り立った谷や崖、滑落の危険がある立ち入り禁止区域が点在しており、自然の厳しさを色濃く残しています。


こうした過酷な地形こそが、実戦さながらの訓練を可能にした地理的要因であり、二俣がゲリラ戦要員の訓練地として選ばれた決定的な理由のひとつなのです。
ゲリラ戦の典型的な戦場とは、深い森林、切り立った崖や谷、そして飲料水を確保できる河川など、自然地形を巧みに利用する場所です。特に河川は、軍の行軍ルートに欠かせない存在であり、水を必要としない軍隊は存在しません。そのため、河川沿いでの待ち伏せや奇襲は、ゲリラ戦における基本戦術となります。地形の隠蔽性と水利の重要性を兼ね備えた場所こそ、ゲリラ戦訓練にはうってつけなのです。
そして二俣は、まさにその条件をすべて満たしていました。谷があり、崖があり、川が流れ、密林が続く——この土地そのものが「ゲリラ戦とは何か」を体で教えてくれたのです。

情報的側面──「誰にも見られない場所」が成立した理由
現在の二俣は、山々に囲まれた山間の町であり、集落はまるで身を寄せ合うように、川沿いや斜面に点在しています。
一見すると、こうした地域に訓練施設を密かに置くのは不適切に思えるかもしれません。人の住む場所に訓練地を設ければ、不特定多数に存在が知られるリスクが高まるからです。それならば、まったくの無人地帯、つまり「完全な過疎地に設ければよいのでは?」と思われるかもしれません。
しかし、実際にはそう単純ではありません。むしろ人のいない山奥に、突然、軍服姿の教官や訓練生が現れた方が、周辺からは「何か始まったらしい」と目立ってしまうのです。
この点において、二俣は非常に巧妙な立地でした。当時の二俣には、小規模ながらも集落があり、さらに戦前から陸軍工廠(こうしょう)──軍事物資の製造施設が存在していたため、軍関係者が出入りする光景は日常的でした。つまり、地元住民の間には、軍服姿の人間が歩いていても、特に目を引かない雰囲気と認知がすでに出来上がっていたのです。
こうして二俣は、秘密を守りつつ、必要最低限の「人の目」にも紛れ込めるという、絶妙なバランスを備えた場所だったのです。結果として、ここは「誰にも見られない場所」として、実質的に秘密訓練の維持条件をすべて満たしていたのです。

二俣分校で鍛えられた者たち──800名超のゲリラ戦要員
陸軍中野学校・二俣分校の歴史は、わずか1年にも満たない短さでした。開校は1944年9月、そして閉鎖は終戦を迎えた1945年8月。その短期間に、第一期から第四期まで、延べ800人以上の訓練生が送り込まれ、ゲリラ戦要員として育成されていきました。
訓練期間は平均してわずか3か月間の短期集中型。過酷な地形と徹底した教育のもとで鍛えられた彼らは、戦局が悪化する中、アジア各地の前線へと送り出されていきました。実際にどれほどの成果を上げたか、正確な記録は残されていません。しかし、確かなのは、このわずかな訓練期間であっても、「生き延びて戦い抜く力」を叩き込まれた者が存在したということです。
その代表例こそが、後に世界中の注目を集めることになる男──小野田寛郎(おのだ・ひろお)氏です。

戦後も諜報の使命を貫いた男──小野田寛郎、29年のゲリラ戦
終戦から約29年後の1974年、フィリピン・ルバング島に“元日本兵がなおも潜伏している”というニュースが報じられ、日本中が騒然となりました。
その人物こそが──小野田寛郎氏。1945年の敗戦を信じず、米軍に対するゲリラ戦を継続しながら、現地でサバイバル生活を送っていたというのです。発見された時、小野田氏は軍服姿のまま、戦前に課された命令を守り続けていたといわれ、その姿は「最後の日本兵」として世界中の注目を集めました。

小野田氏がなぜ、これほどまでに徹底した行動を取ることができたのか。その答えは明らかです。彼は、陸軍中野学校・二俣分校の卒業生だったのです。

二俣で叩き込まれた教えが支えた29年のサバイバル
小野田寛郎氏の驚異的なゲリラ活動。その裏には、二俣分校での教えと訓練が深く刻まれていたことが知られています。
二俣分校では、「命を無駄にするな。最後まで任務を全うせよ」という教えが徹底されており、小野田氏はそれを忠実に守りました。「敵の欺瞞(ぎまん)情報は信じるな」という教訓もまた、小野田氏が「終戦」という情報に惑わされなかった理由といえます。
小野田氏が潜伏していたフィリピン・ルバング島は、密林、谷、崖、河川といった自然環境が広がる、まさに「天然の要塞」。その地形は、彼が訓練を受けた静岡・二俣の環境と驚くほどよく似ていました。つまり、小野田氏は、ルバング島での生活において、二俣での過酷な訓練の記憶を頼りに生き抜いていたのです。
仮にこの訓練がなければ、異国のジャングルで29年にわたり生き延びるなど、不可能だったでしょう。

小野田氏の帰還が呼び覚ました「二俣分校」の記憶
小野田氏の帰還は、戦後の記憶が徐々に風化していた日本に、一時的ながらも強烈な「戦前」を呼び戻しました。特に、旧・陸軍中野学校二俣分校の存在を、全国に知らしめるきっかけとなったのです。
そして、その帰還から5年後の1979年、当時の静岡県天竜市二俣町二俣(現・浜松市天竜区)には、「陸軍中野学校二俣分校校趾碑」が建立されました。

この碑の裏面には、教官であり、二俣分校長だった熊川護氏、第一期生として末次一郎氏の名前、さらに「中野学校校友会」の名も刻まれています。碑文には、「永く後世に留むるため」という言葉が記され、分校の記憶を未来に伝えようという強い意志が感じられます。
旧・陸軍中野学校の関係者たちは戦後、「中野は語らず」と言われたように、自らの経歴を口にしない姿勢を貫いてきました。しかし、小野田氏の生還という出来事が、彼らの心にあった記憶と誇りを再び呼び起こしたのでしょう。
「彼の姿を見て、あの訓練の日々を思い出した」──そんな思いが共鳴し、かつての教官や卒業生たちが集まり、記憶の象徴として趾碑(あとひ)の建立に動いた。そんな光景が目に浮かびます。

今も静かに佇む、二俣分校跡地の記念碑
静岡県浜松市天竜区二俣町二俣──かつて陸軍中野学校二俣分校があったこの地には、今もひっそりと「陸軍中野学校二俣分校校趾碑」が建っています。
それは静かに、しかし確かに語りかけてきます。「この場所で、若き訓練生たちがゲリラ戦の教練を受け、それぞれの戦地へと旅立ち、そしてその幾人かが帰らぬ人となった」──その記憶を今に伝えているのです。
しかし、この趾碑は、二俣の各所に掲示された観光案内図にはほとんど記載されていません。
二俣には、天竜川の清流や、戦国時代に武田・徳川が争った二俣城跡、秋野不矩画伯の世界を体感できる「秋野不矩美術館」、そして本田宗一郎の名を冠した「本田宗一郎ものづくり伝承館」など独自の観光資源が点在しています。その中において、「陸軍中野学校二俣分校校趾碑」は、案内図や観光紹介の中にほとんど登場しません。

この背景には、おそらく地域が抱える複雑な心情があります。二俣分校という存在は、地域の歴史の一部でありながらも、平和と戦争という相反する価値観のはざまに置かれてきました。受け入れたい、けれども全面的に受け入れるにはあまりにも重い──そんな感情の揺らぎが、今も地域社会に静かに横たわっているのかもしれません。
この地を訪れ、趾碑の前に立ったとき。私たちは「忘れるべきこと」と「伝えるべきこと」のあいだに立たされます。何を見て、何を記憶に刻むのか──それは、今を生きる私たちに託されているのです。

『エヴァンゲリオン』の舞台モデルにもなった、二俣の町
近年、二俣に新たな注目が集まりました。それは、人気アニメ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズの最終作となる第4作目(2021年公開)において、二俣が劇中舞台のモデル地のひとつとして選ばれたからです。
劇中には、「第3村」と呼ばれる山間の集落が登場します。主人公たちが世界の混迷から逃れて、肩を寄せるようにひっそりと暮らす村という設定でした。その「第3村」の風景イメージのひとつに、二俣の町並みが用いられたとされています。

公式に明言されているわけではありませんが、二俣には、昭和の面影を色濃く残す木造家屋や、時間が止まったかのような静かな街並み、そして険しい山々に囲まれた秘境のような風景が今も残っています。こうした「忘れられた場所」のような情景が、世界の混乱を逃れて静かに暮らす人々の物語と、どこか共鳴したのかもしれません。
もしそうだとすれば──かつてこの地に、陸軍中野学校二俣分校が設けられ、密かな訓練の場として選ばれた理由とも、どこか重なる部分があるようにも思えてきます。
また、劇中では、主人公たちが最終的に「第3村」を出立して、最後の戦場へと赴きます。この展開は、二俣分校で訓練を終えた卒業生たちが、各地へと散っていった姿とも重なります──そんな構図は、現実とフィクションの境界を曖昧にしながら、今も二俣の空気の中に漂っているのかもしれません。

歴史の節目に現れる「二俣」という場所の不思議な吸引力
静かな山あいの町、二俣。この土地は、なぜか歴史の節目ごとに、人や物語を引き寄せてきました。
昭和初期には、陸軍中野学校の二俣分校がこの地に開かれ、密かにゲリラ戦の訓練が行われていました。そして令和に入り、人気アニメ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の舞台イメージとして、その風景が再び脚光を浴びることになります。戦国時代に目を向ければ、徳川と武田が二俣城を巡って争い、武士たちが命を賭けて奪い合った地でもありました。
こうして武士、スパイ、そしてSFの世界観を生きるメカたち──時代の最先端を生きた者たちが、この地に足跡を残してきたのです。
そしてこれからの時代。もし日本が再び対外的な諜報能力の強化に舵を切るなら、かつて陸軍中野学校で培われた知識や技術が見直される日が来るかもしれません。そのとき、スパイ育成の地であった二俣にも、新たな視線が向けられても不自然ではないでしょう。
静かで目立たない町でありながら、歴史の背後で確かな存在感を放ち続けてきた二俣。ここには、時代を越えて人や物語を惹きつける、何か不思議な力があるように思えてなりません。

以 上



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