総論002:スパイエンタメと無縁で問題なかった諜報機関(SPY-EN005)
諜報機関のイメージ戦略とスパイエンタメ
諜報機関に起きた世界的な変化の一つに、諜報員の一般公募制度の導入があります。2005年、英国秘密諜報部(MI6)が創設されて以来、初めて諜報員の一般公募を始めたことで話題になりました。この結果、各国諜報機関は、引き続き選考採用を行いつつ、外部からも広く諜報員を募るという流れが本格化したのです。
特に、選考採用の中には事実上、縁故採用と言って良いほど選考過程が不透明で、諜報機関の恣意性に左右されるものもあります。また、政府機関の職員採用が一般公募を原則としている中で、諜報機関のみに縁故採用が認められた場合、その妥当性に疑義が生じやすくなります。故に、縁故採用同然の選考採用は年々、縮小を余儀なくされ、代わって一般公募が導入及び拡大されたわけです。
こうして諜報機関は、一般社会に対する自分たちのイメージが採用活動の成否に依存するようになり、「潜水艦」という認識を捨てて海上へ浮上する必要に迫られました。
諜報機関が「潜水艦」であり続けてきた一方、一般社会では、ドラマチックな諜報活動を描くスパイエンタメが数々制作されていました。スパイエンタメは、「潜水艦」である諜報機関の実態について特段の情報を得られておらず、スパイの諜報活動を創作と演出と脚色によって描くほかありませんでした。このため、スパイの実態と創作に乖離が生じる一方でしたが、そもそも双方とも特段の接点を有する機会はなく、互いに別物として干渉し合う必要はありませんでした。
しかし、上述のように、諜報員のリクルートが縁故採用や選考採用から一般公募へ軸足を移す過程において、スパイの実態と創作はここで本格的に接点を有するようになります。

スパイエンタメの隆盛によるスパイ志願者の増加
継続的にスパイエンタメが制作され、その度にスパイが社会的に改めて認識される中、諜報機関による諜報員の一般公募には、スパイを志す志願者が顕著になっています。志願者からは、スパイエンタメに影響を受けて採用を希望する旨の動機が語られることもあり、スパイエンタメの影響がスパイのリアルな事情にまで及んでいることが窺われます。
諜報機関にとっても、自組織の人材発掘が豊かになることは利点であり、本来であれば手放しで歓迎しても不自然ではありませんが、ここで複雑な事情が存在します。スパイエンタメの影響を受けて諜報員に志願するということは、スパイエンタメにおける創作と脚色と演出を見て、諜報員の仕事内容をイメージで思い描いていることにならざるを得ないのです。もちろん、諜報活動に関する情報が社会的に広まっているはずがなく、どこまでも限定的な情報しか存在していないため、一般人がその範囲内でしか諜報活動の内容を把握できないのは当然です。
ただ、諜報員の実態と乖離したスパイエンタメから、諜報員の仕事に携わろうとなると話は別であり、志願者の中からは採用後に現実と理想の違いに戸惑ってしまう者が現れます。
当ブログにおいて連載中の「実はロクでもないPSIA新人勤務日誌」においては、子供の頃からスパイエンタメに憧れたある若者が、スパイを志して諜報機関に採用されたものの、研修開始まもなく現実と理想の違いにぶつかってしまいます。これは、新人諜報員にとってありふれたエピソードでもあります。
諜報機関による諜報員リクルートにおける従来の留意点
諜報機関は、縁故採用や選考採用から一般公募へと採用形態を変えていますが、こうした変更に当たっては、敵対組織による自組織内部への浸透を阻むための方策を講じねばなりません。
諜報機関における採用面接においては従来、人物重視という採用基準が設けられており、特に、人間関係を構築することに向いているかどうか、という点が求められてきました。このため、面接時には、例えば、酒やタバコの可否が聞かれており、これは、人付き合いにおいて飲酒や喫煙が求められる機会が少なくないためです。
一方、面接時において忌避されるのは、志願者による諜報機関や諜報活動に関する過大な関心や不適切な知識です。諜報機関を志願するくらいですから、一定レベルの関心や知識があるのは自然ですが、常軌を逸したレベルの関心が見受けられたり、諜報活動に関して公開情報から容易に入手できないレベルの知識を有していたりする場合です。これは、諜報機関から見て、敵対組織が送り込んできたスパイではないかとの疑念を感じざるを得ません。例えば、就職活動のように、採用を希望する会社について情報を収集して調べ上げ、この点を面接時にアピールすることは自然なはずですが、諜報機関が相手ともなると事情は異なります。
諜報機関にとっては、情報や諜報活動に関する知識と技術は、採用後から徐々に身に付けていけば問題なく、そもそも採用前から即戦力となる人材を求めていません。採用前の段階で、一般社会で入手困難な情報や諜報活動に関する知識と技術を有するのは、明らかに不自然と見られてしまうのです。実は、諜報機関の本音で言わせれば、諜報活動にある程度関心を持ちながらも、情報や諜報活動に特段の知識や技術を有しておらず、人間関係を構築することが得意としているという温度感が都合の良い人材ということでした。

スパイの仕事に関心を持って、スパイを志すことは問題ないけど、いわゆる「オタク」に近い知識や情報を持つ志願者は、諜報機関的には困りものなんだよ。できれば、特定の色に染まっていない真っ白な志願者の方が採用されやすい。

ボクはスパイ映画に興味があるくらいでしたので、許容範囲内と判断されたのでしょうか。
スパイエンタメに影響を受けた諜報員リクルートの新たな留意点
しかし、スパイエンタメによるスパイへの社会的な認識が向上する中で、情報と諜報活動に関する知識と技術もインターネット上で取り扱われるようになり、志願者の間でこうした知識や技術を有することも珍しくなくなりました。
そして、諜報機関における採用面接では、情報や諜報活動に関する知識と技術に精通した志願者も現れ始めます。もちろん、諜報機関自体についても、就職活動における企業研究のようにインターネットを通じて情報を収集してくる志願者もおり、諜報機関が求める都合の良い人材は従前ほど見受けられなくなりました。
こうなると、志願者全体の傾向としては、インターネット上で入手可能な知識と情報を収集した「俄な情報と知識を備えたスパイ愛好者」が散見されるようになります。インターネット上では、スパイに関する検索を進めていきますと、「工作」、「運営」、「身分偽装」、「協力者」など諜報機関内部においても常用される専門用語を把握することが可能です。志願者がこうした専門用語を調べてくるのは当然であり、結果としては、志願者の中には、諜報機関の実態に近い知識と情報を持ちながらも、これらは飽くまでもインターネット検索を通じて入手したに過ぎない俄な知識と情報を持っている者が顕著になるということです。
これは、諜報機関にとっては、必ずしも好都合な事象と受け止められません。飽くまでも、諜報活動の知識と情報は、採用後に実地訓練を経ながら身に付けてくれれば問題なく、むしろ採用前の段階では、人間関係を構築できるかどうかという、訓練で変えようのない向き不向きを見極めることが重要なためです。スパイエンタメを受けて、スパイが社会的に繰り返し認知され、インターネット上にスパイに関する知識や情報が溢れるようになることで、諜報機関の諜報員採用は、新たな留意点が求められるようになりました。

スパイの実態を世に広めるもう一つの必要性
こうした新たな留意点に対応するため、諜報機関は、従前まで秘密にしてきた諜報活動をある程度のレベルにまで社会に公開する必要性に迫られてきました。諜報員志願者の一般公募が普及し、スパイエンタメを通じて諜報活動に対する社会的な興味や関心が向上し、諜報活動に関する知識や情報をインターネット経由で入手することが可能な中で、諜報活動の内容や諜報員に求められるスキルなどを情報発信しなければならなくなったのです。
限りなく実態に近い諜報活動の情報発信を行わなければ、諜報員や諜報活動に関する社会的なイメージは独り歩きするばかりであり、以前のように、こうした独り歩きが諜報機関にとって無関係でなくなっている以上、やむを得ない措置といえます。スパイが古代から存在する職業の一つと言っても、近代社会における諜報機関は、周囲の環境の変化に対応しなければ、近代国家の予算と権限に基づいて、縮小と廃止を余儀なくされかねないのです。
諜報機関は、社会のイメージに沿った諜報員や社会に開かれた諜報活動を模索せざるを得なくなりました。近代諜報機関は創設当初こそ、その存在自体すら秘密にされてきましたが、時代の変遷を経て、社会から注目を集めることすら必要になったのです。
したがって、諜報機関は、過去の暴走を鑑みて、国民と政府に対して合法妥当な諜報活動を説明せざるを得なくなったばかりか、さらに、諜報員志願者を一般公募するために諜報員と諜報活動のイメージを向上させることも必要になったのです。

スパイエンタメは諜報機関と社会を繋ぐ重要な要素
こうして諜報員と諜報活動のイメージ戦略が声高に叫ばれるようになると、諜報機関は、スパイエンタメとの連携に着目します。元々、諜報機関は、スパイエンタメと公に特段の接点を持とうとしてきませんでした。これはやはり諜報活動を秘匿するために、その実態に関する知識や情報をスパイエンタメに与えたくなかったのでしょう。むしろ、スパイエンタメにおいて、諜報活動の実態と乖離した「情報屋」や「アクションシーン」が登場することで、情報とスパイの本質を社会からひた隠しにする上で都合が良いものでもありました。つまり、スパイエンタメによって、事実上、諜報活動の実態を偽装することができたのです。
しかし、諜報機関が社会との接点を模索するようになると、スパイエンタメは、社会的な認識や関心を諜報機関へと誘導するための導線ともなります。スパイエンタメではかねてより、「情報屋」や「アクションシーン」などが脚色されていますが、ここでは一旦、脚色されたスパイ像に社会的な認識や関心を集めておいて、これらを諜報活動の実態公開というイベントや広報活動へと繋げていくという戦略です。
こうすることで、スパイエンタメを通じて諜報活動に一定レベルの関心を持った者は、諜報機関がある程度実態を公開するイベントや広報活動によって、理想と現実の違いを理解する契機ともなります。これに併せて、人物重視という諜報員の採用基準に繋げていけば、諜報機関にとって現実と理想を兼ね備えたバランスの良い知見と素質を有する人材を獲得することも可能となります。

スパイエンタメが火を付けた諜報機関のメディア戦略
諜報機関は、自前単体の広報活動のみならず、スパイエンタメを含む様々な外部メディアを巻き込んだ戦略を採用しています。例えば、採用パンフレットの内容を一新し、諜報活動の一部を可能な限り明示したり、諜報活動の現場についてテレビ取材を受けたり、講演会を主催して諜報員を講師に立たせたり、諜報機関の幹部がインタビューを受けるなど、多岐にわたっています。特に、諜報員のインターンシップ制度までも導入され、外部から諜報活動の一部を疑似体験できる機会すら設けられたことは画期的と言えましょう(以下:実例紹介参照)。
また、スパイエンタメが制作されて好評を博した場合、スパイエンタメの内容について、諜報機関が取材を受ける場合もあり、社会に対して、スパイという枠組みで露出度を高めようとする取り組みすら行っています。
もはや、スパイとは、裏社会を生きる都市伝説などではなくなりつつあります。そして、スパイエンタメは、インターネットの普及を経て、高度な情報化社会で存在感を確保しようとする諜報機関にとって、新たな偽装の一つに過ぎないかもしれません。今後、諜報機関は、スパイエンタメとの更なる連携を模索しつつ、メディア戦略を進めていくでしょう。
実例紹介①:スパイエンタメに基づいて取材を受ける諜報機関の広報担当者

実例紹介②:諜報員インターンシップ制度の開催告知
実例紹介③:専門家から取材を受ける諜報機関幹部
以 上




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